はい!1ヶ月の充電期間を経ましてやって参りました今月のおっさん!
日本国民かなりの確率で知っているのではないかと言うこのお人!宮本武蔵のおっさんです。
さてさて、老若男女誰でも一回は聞いたことがあるであろうこのおっさん(言い過ぎか?)。
二本の刀を振り回し、敵をバッタバッタと倒しまくりで二天一流兵法の祖!
宮本武蔵(新免武蔵守 藤原玄信・・・ながっ!)のおっさんです。よく映画や小説では若い頃は
悪たれ者の悪蔵!なんていわれて世の中をナナメに見ていた感のあるこのお方、小さな村を
飛び出して名を挙げようとしますが、ごたごたになって追われる身!世の中そんなに巧くは
行かないということですかね?ま〜それは小説や映画のお話で色々と味付けされているみたいです。
武蔵と言って思い出すとすれば巌流島の決闘でしょうか?佐々木小次郎より遅く決闘場に着き、
イライラしていた小次郎のおっさんをきゃ〜ん言わしたことは万人の知るところでもあります。
セコイか?なんて思わずに兵法なり!勝てば官軍負ければ賊軍曰く、勝った武蔵のおっさんが
ヒーローみたいですね・・・。今でも巌流島には二人の銅像が立っていて観光のスポットに
なっているそうです。生涯の決闘60余回、すべての勝負に勝ったと「五輪書」には書かれています。
しかぁ〜し!こうも武芸での評価が高い武蔵のおっさんですが繊細といいますか、芸術家としての
一面もあり歌を詠んだり水墨画を二天の号で書いたりもしています。後世の評論家などは、
職業画家ではない稚拙さ素朴さが逆に作品の評価を高めているとの意見も・・・って、専門家じゃ
ないけどなんとなくいいんじゃない?的な感じですかね?(違うか!)文武両道とはよく言いますが
武蔵のおっさんもそんな一面を醸し出している一人です。そんなこんなで現代では映画や小説、
テレビドラマ、はたまたTVゲームなど様々なメディアで活躍している武蔵のおっさんですが、
その最後は伝説では胃癌だと言う説があり、60歳を過ぎ五輪書を書き始めていた武蔵のおっさん!
急な病に倒れ療養のため戻った熊本の市中で亡くなったそうです。最強の名を持ってしても病気には
かなわなかったと言うことでしょうか?様々な史書や口伝色々な物で伝えられていますが、後世に
これだけ取り上げられるのですから魅力的でミステリアスな感もチラチラさせてる
素敵なおっさんだったのではないでしょうか!!それではまた来月〜!!
まだまだ水も緩まない(そろそろかな?)今日この頃、風邪をひいてはいないでしょうか?
さてさて今回はこのおっさん!チョー有名ですね越後の虎!軍神と言われ続け400年ちょっと
上杉謙信のおっさんです!
背中に引っさげるは、毘沙門天の四文字!軍神と呼ばれ、その戦いは武田信玄や織田信長にも
匹敵する力を持ち、時には策略、時には単独一騎駆けの勇猛ぶりをみせるチョーカッコイイ
おっさんの1人なのでありまする。そして血気盛んなイケイケぶりかと思いきや無欲潔癖、領土を
ガンガン広げようと野心丸出しではなく、頼られれば親身になって援軍を送ったり、はたまた
今まさに睨み合っている信玄にさえ手助けを差しのべてしまったりと義理堅い面を
見せたりもすれば、売られた喧嘩は上等!かかってこいや〜!と言う気性の荒さもみせ
ちゃったりする群雄割拠の激しい時代にあって希有な存在のおっさんデス!そのせいなのか、
現代でも根強い人気のおっさんであります。そして謙信のおっさんと言えば有名なのが
川中島の戦いですね〜!大河ドラマにもなったこともあるし、相手があの武田信玄のおっさんと
言うこともあって歴史的一大イベントなのであります。合戦は第五次まであったのだけれども
最後の第五次はにらみ合いのまま双方撤退となってしまいます。
その合戦の中で一番キツかったのが第四次だそうです。この時、冒頭でも書いてある
謙信一騎駆け!題して「謙信のおっさん何を思ったか単独一騎駆け!信玄のおっさんを
『きゃ〜ん』言わす」を敢行!いきなり自軍に現れた謙信にビックリした武田軍は右往左往、
本陣にいた信玄も太刀を浴びせられ、ひと泡吹かせたというイカしたエピソードが
この時生まれたそうな・・・
それと、謙信は生涯を通して妻帯をしていなく、子供はみ〜んな養子というおっさんでした。
また謙信女性説もあり本当は謙信は女だった!(むかしのおっさんではなくむかしのおばちゃん?)
という説もあり、あ〜でもないこ〜でもないと色々物議をかもしだす人物みたいですな。
そんな豪傑もいつかは逝ってしまう物で、その死因は一説に「脳血管障害」、無類の酒好きだった
謙信のおっさんは梅干しを酒の肴にぐびぐびぐびぐび・・塩分の取りすぎが
祟ったのか高血圧!そのせいで脳卒中を引き起こして
亡くなったという説もあります。歴史的には大きな事をした
感はないのですがその人柄や行動が好感が持てて、
今でも人気のあるおっさんです♪
さあ!今月も張り切っていきますよ〜!!それでは今月のおっさんです!! 忠勝のおっさんこと、
本多忠勝のおっさんです!ドンドンドンパフパフ〜!!文武共にイケイケのおっさんだったみたいですね!!
ではでは、さっそく行ってみましょ〜!
さてさてこの忠勝のおっさんですが、いや〜強い強い!一生涯に参戦した戦はなんと五十七回!!いずれの合戦においてもかすり傷ひとつ負わなかったと伝えられているほどの猛将!!名前もただ勝のみ!で忠勝!かっこい〜!戦いにおいては天下三名槍に数えられる「蜻蛉切(名前の由来は穂先に止まった蜻蛉(とんぼ)が真っ二つになったという逸話からこの名が付き、茎には村正の一派と言われる「藤原正真作」の銘が彫ってある一品です。どうですかお父さん良い仕事してますよ〜!槍は刃長43.8cmの笹穂型の大身槍。柄の長さは6m(通常の長槍は4.5m)もあったんだって!すご〜!」を引っさげて敵をバッタバッタとなぎ倒しまくりでやりまくりのやんちゃなおっさんです。ちっさい頃から徳川家康に仕えて早幾年月、おっきくなったら徳川にこの人ありと言われるまでに成長していったそうな・・・。そして一言坂の合戦では殿軍での戦いぶりを見た武田方の小杉左近から「家康に過ぎたるものは二つあり、唐のかしらに本多平八」との狂歌の落書をもって賞賛されたことが有名だそうな。さらにさらに小牧・長久手の戦いでは、わずか500名の軍勢を率いて秀吉自ら率いる8万の大軍と対峙し、秀吉の家臣、加藤清正・福島正則達をきゃ〜ん言わしたるとの剛胆ぶり。反対に忠勝の姉川での勇猛ぶりを聞き知っていた秀吉は目に涙を浮かべ「わざと寡兵で我が大軍に勇を示すのは、我が軍を暫時喰い止めて家康の軍を遠ざけるためであろう。徳川家を滅ぼした際にはかれを生け捕って我が家人にすべきなり」と忠勝を討ち取ることを禁じたそうな。秀吉にそこまで言わせたのだからかなりイケてるおっさんだったのだと思われます。そんなイケイケの忠勝のおっさんですが、晩年小刀で持ち物に名前を彫っていた時、うっかり手を滑らせ指に小さな切り傷をつけてしまった忠勝は「わしの命運もここまでか」と嘆き、
実際にその数日後に逝っちゃったそうです!これはビックリ!
これが忠勝の生涯の中で最初で最後の負傷だったと言われています。凄いおっさんですね!!
はい!今年もやって参りました。むかしのおっさん!昨年は
色々とご愛顧を頂きましてありがとうございました。今年も
なんとか紙面を飾れる機会を頂きましたよ〜!それでは
年明け一発目はこのおっさん!黒田官兵衛孝高こと
官兵衛のおっさん!はい、よろしくどうぞ〜!
このおっさん、織田信長や豊臣秀吉、徳川家康らと同世代を生き抜いたごっつい頭の冴えた軍師的なおっさんであります。自分にはガンガン前へ前へと出て行っているイメージはないんだけど、沸々と天下とったるぞ〜と心の奥底に秘めたフィクサー気質のおっさんです。本能寺の変で信長のおっさんが明智のおっさんにキャーンいわされて逝ってしまった時、官兵衛は取り乱す秀吉に対して「御運が開かれる機会が参りましたな」と進言して、明智を討つよう促し見事天下を秀吉に取らせちゃったんだから凄いね〜!そんな官兵衛のおっさんですが、こんな逸話があります。秀吉が家臣に「わしに代わって、次に天下を治めるのは誰だ」と尋ねたそうです。家臣たちは徳川家康や前田利家の名前を挙げたんだけど、秀吉は黒田官兵衛(孝高)を挙げ、「官兵衛がその気になれば、わしが生きている間にも天下を取るだろう」と言ったんだそうな。側近は「官兵衛殿は10 万石程度の大名に過ぎませんが」と聞き返したんだけど、秀吉は、うきー!「お前たちはやつの本当の力量をわかっていない。やつに100万石を与えたらとたんに天下を奪ってしまう」と言わせたんだそうな・・・。それにマブダチの小早川隆景からは「貴殿は頭が良すぎて物事を即断即決できてしまうから後悔も多いだろう」とも指摘されたみたいです。そんなこんなで、秀吉に危険人物とマークされてしまったからさあ大変!?しかしそこは即断即決の官兵衛のおっさん、そのことを関知するやいなやさらっと息子に家督を渡して自分は隠居!黒田如水と名乗り、出家までして周りに危険じゃないですよ〜とアピールしたりと、世渡り上手というか処世術にたけているおっさんであります。それに「ドン・シメオン」という洗礼名を持つキリシタン大名と言う一面ももっていたみたいですね〜♪
いやいや今回、なぜ黒田官兵衛になったのかと言いますと、
ある方から官兵衛やってちょうだいとオファーがあったん
ですよ!これが!いや〜どこで誰が読んでいるか分かり
ませんね〜!それではまた来月に〜!
さてさて、今年もあと僅か・・・そんな台詞が似合う今日
この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか?師走ですよ!!
そりゃ〜お坊さん(師)も忙しくって走るってモンですよ!
さてさてこのおっさんも13回目!干支にしたら2周目
です!覚えている人はごく僅かだと思いますが第一回目は
前田慶次郎!そして2周目はこのおっさんからです!
槍の又左こと、前田利家!このおっさんにロックオン!
又左のおっさんのイメージは原哲夫氏の「花の慶次」が強く、あまり良いイメージがなかったんですが色々な文献や他の媒体を読み解くと、今まで持っていたイメージががらりと変わってしまいました。なかなかかっこえ〜おっさんです!!若い頃は慶次郎のごとくいやいやそれ以上かもという位の短気で喧嘩早く、派手な格好をしたかぶき者だったみたいですね〜!しかしその血気盛んな事が仇となり若い頃はめっちゃ苦労の連続なんですよコレが・・・永禄初年頃に織田信長の親衛隊的存在の直属精鋭部隊、赤母衣衆筆頭に抜擢され多くの与力を添えられた上に、昇給もして、奥さん(まつ/芳春院)を側室に迎え、これからやったるぞい!と言う時に信長の異母弟で同朋衆(ここで言うところの同胞衆は現代でいう同性愛の事です。戦国の世では武士のたしなみのひとつでもあり主君に寵愛される事もステイタスだったんですよこれが!でも誰でも良いと言うわけでもなくやっぱり文武に秀でていて格好良かったりしないとアカン!みたいだったようです・・・かなり脱線してしまいましたがこの辺で本題に戻ります)の拾阿弥と諍いを起こし、拾阿弥を斬殺したまま出奔、浪人暮らしをする羽目に・・・その後信長の戦に推参(勝手に参戦)するもなかなか許して貰えずへこんだ感が漂っていたそうな。そんなこんなでようやく許しを得た、利家のおっさんです!ここからはバリバリ武功を上げその地位をどんどん確立して行ったんですね〜!
若い頃は血気盛んのかぶき者、赤母衣衆筆頭として信長の元で活躍!
加賀100万石を創り上げたかっこえ〜おっさんです。
さて、前回は何を思ったかふらっと海外に行ってしまいましたが、あれはあれでリフレッシュできました!(笑)
2011年はどのような年になりますかね〜がんばっていきましょ〜!!