■30代半ば過ぎてからの転職。職場の先輩は高校生だった。
味とサービスに妥協は許さず。株)雅秀殿は、多岐にわたるジャンルの飲食店を経営中。中華料理専門店の「雅秀殿」を始め、全部で28店舗を運営。中でも、最近一段と元気の良い店舗が、「石焼らーめん火山」の15店舗だ。現在、栃木県内にどんどん浸透し、人気を博している。10月には戸祭店が堂々オープンする運びだ。 「石焼らーめん火山」の部門で、店舗支援部 火山標準化チームのチーフディレクターとして活躍中の野中さんにお話を伺った。「飲食店に興味があり、仕事にするならこの分野とどこかで思っていました。」以前は別の会社でPOSシステムの営業職の仕事をしていた。その際、自らが開拓し顧客だったのが(株)雅秀殿だ。「どんどん様変わりしていく雅秀殿に興味を持ったのがきっかけです。将来性を感じ、転職を決意しました。」30代半ば過ぎてからの遅咲きの再スタート。大きな転機だった。「まず入社最初の3ヶ月は、仕事を体でも覚えるために現場を知ることから始めました。教えていただいたのは20歳近く年下にもなる高校生のアルバイトの方が先輩となりました。何もかもが初めての経験、厳しいこともありましたが、飲食の基本を徹底して習得しました。」
■ディズニーランドのような店内。
らーめん火山の石焼ラーメンと言えば、名物の一つ。熱く熱した石焼き釜の中に、噴き出んばかりの熱々のスープがしぶきをあげ、正に火山を思わせるコクのある一品だ。素材にこだわり、カルシウム・コラーゲンもたっぷり。じゅうじゅうと湯気を上げる石焼の中には、新鮮野菜の旨みが凝縮されている。こだわりのコンセプトと、美味しさに火が付いて、人気を誇るメニューとなった。野中さんが最近手がけた仕事の一つに、3月にオープンしたばかりのインターパーク店の立ち上げがある。「多種多様な部署の社員が集まって、火山の事業に初めて向き合った仕事でした。他店とは全く様相を異にするものを立ち上げたかったから、必死で取り組みましたね。」その際、最高の褒め言葉もお客様から頂いた。
「まるで、ディズニーランドみたいだね。」
つまり、お客様へのサービスが行き届いていて、奇想天外で、尚かつ楽しい空間を演出している、ということ。「自分自身、逆境もプラスに考えられるプラス思考な人間だと思います。出来ないと思うよりも、まずは取り組むのがモットー。これからもどんどん、熱くて元気で楽しい火山を創ていきたいですね。」プラス思考なことが、野中さんの天性の才能と言えるかもしれない。「プライベートでも、家中のあちこちにスピーカーを付けており、屋外・お風呂場までレゲエやヒップホップを流して楽しんでいるんです。最近は会社のメンバーでジェットスキーの免許を取り、休日に遠出して猪苗代に出向くこともあります。仕事の後にも会社で作った野球チームに参加し、楽しんでいます。」
■家族も視野に入れた、社員全員にとっての働きやすい職場環境づくりを目指して。
尊敬する先輩は3歳年上の尾上エリアマネージャー。「現場で頑張っていこうと思えたのも、尾上さんのおかげでした。サービスや調理に関しても、衛生管理や包丁使い、鍋の使い方から細かいところまで教えていただきました。実践してきたことから教育していただいたので、方針がしっかりしていて解りやすかった。そういった職場の仲間に支えられつつ、今の自分があると思います。」今後は、火山の100店舗開店の目標と、他業態の展開も視野に入れている。「働いている従業員を含めその家族の方にも、最終的には喜んでもらえる企画をし、コミュニケーションも図りつつ働きやすい、楽しい職場を目指したい。それがやがては、雅秀殿全体の活性化と発展につながっていくと思います。」
■遅咲きのスタートの舞台は大阪・梅田。
大阪の梅田にある天神橋筋商店街は、日本一の長さで知られる有名な商店街。その中に、『パンデスマイル』というパン屋がオープンした。今から数年前の話だ。真っ赤なロゴがひときわ目立つパン屋の店主となった半田さんのパン職人としてのスタートは、意外にも遅いものだった。「以前は営業の仕事一筋でした。元々飲食に興味があったことが発端ではありましたが、とにかく何かを極める仕事がしたかった。スタートは29歳で遅かったですが、ここで戻ることは出来ない、と腹を決めた転職でした。」栃木の出身ではあったが舞台を関西に移し、パンの世界へどっぷりとつかった修行が始まった。「ハードで高い技術力を求められるので、後輩が続かずいつまで経っても『新米』でした(笑)。どうしても弟子入りしたかったお店に押しかけて、無給で働いていたこともあります。一人前になるには10年というのが常識なんですが、とにかく必死で習得し、独学もして異例の早さで独立にこぎつけたんです。」関西の有名店数件で修行を積んだ後、念願の独立を果たす。「職人としての技量も問われるハード系のパン(ライ麦パン・フランスパンなど)の仕上がりには特に気をつけています。それからオリジナルパンの創作にも力を入れています。中でもアールグレイ紅茶をベースにした紅茶のクリームサンドや紅茶のメロンパンは大変ご好評でした。」雑誌「hanako」や、ランキング誌に取り上げられ、名実共に人気店へと成長する。「関西を選んだのは、お客様に尊敬を受けたりするレベルの『スーパーブランジェ』と称されるお店がたくさんあったから。パン業界自体のレベルが非常に高く厳しい舞台でしたが、そこですごく勉強になったと思います。」
■パンへの並々ならぬ情熱。
大阪での順調な滑り出しを迎え、自店を持つことによって、半田さんのパンに対する情熱には益々拍車がかかった。休みの時間が少しでも出来ると、ありとあらゆる有名店を訪問した。時にはその技術や販売力の差に愕然とすることもあったが、その刺激をバネに、向上心は高まる一方だったという。「レベルのかなり高い関西でも、神戸のパン文化は素晴らしいものがあります。パン文化が根付き、ドイツパンなどの専門店も多くある。技術も最高に素晴らしい・・・そして常に発展し続けています。神戸のお客様同様、舌も目も肥えさせてもらいました。」特にこだわった部分は、なんといっても「味」だ。味だけは絶対に譲れなかった。素材へのこだわりや製法には自信がある、と半田さんは語る。バターは発酵バター、小麦粉は十種類を使い分け、塩は天然塩。パンによっては塩も砂糖も使い分ける。クリームチーズも一級品を使用した。カレーパンを作るにしても自家製ルー、タルタルソースやカスタードも自家製にこだわり、作れるものは全て自らの手で作り出した。「例えばレーズンブレッド。厳選した数種のレーズンをブレンドし、ぎっしりと入れるために何度も何度も試作を重ねました。だからうちのレーズンブレッドはレーズンを入れて膨らむ最高限度の量を加えているんです。」
■本拠地を故郷栃木に移転!
この10月中旬、栃木県真岡市に「パンデスマイル本店」がオープンする運びとなっている。地元栃木での出店ということもあり、力の入れようにも期待が持てる。「元々栃木では、パン文化がなかなか定着してこなかった背景があります。パンはあくまで、おやつの領域を超えてない。この真岡市から、栃木のパン文化を少しでも高めるお手伝いをしたいと考えています。」大阪での開業以来、業界でも少なくなった「オールスクラッチ製法」を貫いている。これは自店内ですべてを粉から作る製法で、冷凍生地などは一切使用しない。パンによって小麦の配合を変え、湿度や気温に応じて水分や塩の量を調節するため高度な技術力が必要となる。「フランスパン用にとうちが厳選したフランス産の小麦は、某一流ホテルで通常の小麦にブレンドして使っているだけで、100%の配合で使っていたのは大阪でもうちだけ。大手製粉会社の方が研修を兼ねてわざわざ視察にいらっしゃいましたよ。確かに取り扱いの非常に難しい粉ですが、とにかく焼き上がりの香ばしい香りと独特の食感が格別なので、譲れないんです。」半田さんをそこまで駆り立てるもの・・・それは、パンへの並々ならぬ情熱だ。「自分は根っからの職人気質だと思います。だから、どんな逆境も乗り越えられたはずだし、今ではプライベートも24時間、パンのことばかり考えています(笑)。」尊敬するパン職人は、日本にフランスパンを広めたフィリップ・ビゴ氏だ。「神戸にビゴさんのお店があるんですが、味も技術も、何よりもビゴさんの風格といい、全てが感動でした。」現在、パンデスマイル本店のオープンに向け、店舗の内外装が着々と進んでいる。真岡のメイン通りから少し離れた、落ち着いた閑静な通りの一角にある、ぬくもりのある建物だ。店内も広く、お客様を迎える様々なスペースも工夫されている。コーヒーが自由に飲めるフリードリンクのスタイル、テラスでそのまま焼きたてのパンが食べられるスペース。また、お子様連れのご家族が安心して、ゆっくりパンを選べるように、キッズルームも設けるというサービスもある。「素材や味にも最高の水準でこだわるから、サービスも当然そのレベルを目指しています。いつ来ても心地よい空間であり、美味しいパンを提供できるお店にしていきたいですね。」将来的にはパンのみでなく、出来ればパンをベースにしたレストランやカフェ、パン教室なども開きたい、と半田さんは考えている。「まずは楽しくパンを食べるところからスタートしてほしいから、例えばパンに合う食材やチーズ、ワイン。目で見て楽しむお皿やカップ、ナイフなどのラインナップも揃えていきたいですね。」話を聞いている先から、パンの焼きあがる香ばしい香りが漂ってくるようだ。10月のオープンを控え、今、栃木のパン文化が大きく変わろうとしている。
■大田原からウェディングの新風を
大田原市中田原にある総合結婚式場、勝田屋。豪奢な数棟の建物の造りがとりわけ目に留まる。「勝田屋」は、元々魚屋だった家業からスタートした。魚を卸している先で婚礼の情景を見て、学び、現在の川永社長が始めたのが根本だったという。「社長の父親である祖父の目標は、ここら近辺で一番税金を納めるということだったんです(笑)。そして何の因果か、僕の誕生日と勝田屋がスタートした日が同じなんです。」
常務取締役の川永さんが、東京から故郷の勝田屋に戻ったのは今から1年半前。元々は父親が始めた稼業であった。地方都市にも、優秀な婚礼場は全国各地にある。地方都市だからこその独特の風土、そこに合致し支持される婚礼場を、目指そうと考えた。岡山のマグリット、高知のザ・チェルシー。栃木だからといって、現状にとどまる気はなかった。「全員で話し合って、全てリニューアルすることを決めました。元々父親のバックボーンがあってのスタートだったから、自分は創業者精神的なものは捉えてないかもしれません。でも、だからこそ甘えず、自分に問題を課してやっていこうと決めたのです。まだ始めて間もないですが、スタッフみんなと手を組んで、必ず実績を出せるように、会社全体で盛り上げていきます。」
■喜び・楽しさがダイレクトに伝わる仕事
結婚式という人生最大のイベントを、本人や家族だけでなく出席される全ての方に最高の家族だけでなく出席される全ての方に最高の気分で楽しんでもらいたい。勝田屋では全ての従業員がその思いを念頭に邁進中だという。
「幸せのお手伝いをするには、従業員自身も幸せでなければならない、というのが社長をはじめとする経営者の精神なんです。」スタッフのサービスの根本は「挨拶・礼儀・掃除」。婚礼に参列されるお客様だけではない、取引業者においても、勝田屋の門をくぐる人全てに謙虚であることが求められた。「社長も朝早く来て、自ら水をまき、一番最後に鍵を閉めて帰る人です。その姿勢を従業員も見て、間接的に学んでいると思います。ただ言われてやるのではなく、何のためにやるのかという意識が大切だと感じます。」婚礼もテイスト別に用意。好みやタイプに応じて、テーマカラーを決め、雰囲気の全く異なる式を演出した。1年前にオープンしたばかりの、白を基調とした「ニューヨークテイスト」の式場は、一番の人気を誇っている。クール&モダンな大人のカジュアルウエディングと、音と光が織りなすドラマチックなウエディング。個性溢れる二つのバンケットが、晴れの日の印象的なシーンを作り出す・・・壮大なスケールの独立型チャペル「チャペルマリア」は圧巻だ。天井高10m、バージンロードの長さは13mのチャペル。式後は花々やキャンドルが彩る階段で、祝福を浴びる二人の幸せな笑顔が堪能できる造りだ。「どんなにタイトなスケジュールでも、やはり自分はこの仕事が好きだ、と自信を持って言えますね。大好きな仕事です。」お客様の反応がダイレクトに伝わる、それが手応えとなって還ってくる。「やはり、『ありがとう』で還ってくる仕事はいい。成功するためにも、もっと頑張らないといけないと、思います。」
■楽しくなければ仕事じゃない
川永さんにとって、尊敬する人はという質問を投げかけみた。「父親・・・ですかね。意見が合わないこともよくあるんですが(笑)、やはり仕事面におけるシビアなものの考え方は見習うべき点であるし、ハード面だけでなくソフト面においても遊び心を決して失わない、そのバランス感覚を尊敬しています。」「勝田屋のキャッチフレーズとして、NO FUN NO WORKというのがあるんです。意味は『楽しくなければ仕事じゃない』。仕事の中のどんな小さな部分でもいい、成功体験をたくさんさせたいというのが、社長から受け継いだ、勝田屋の教育理念なんです。」社員のパワーと行動力、全員で改革していこうとする団結力、斬新な発想が勝田屋を大きく変化させるだろう。今後も新しい事業改革が目白押しということだ。勝田屋から益々目が離せない。
■組織の中でも常に次の目標は見えている
「宇都宮に行ってみろ、寿司が回っているぞ。」 出身は益子町。幼い頃に祖父が何気なく話していた会話が、今でも鮮明に蘇る。元気寿司株式会社の設立が昭和43年。同年に生まれたのは、単なる偶然か。営業本部で事業部長を務める法師人さんは、今年で勤務19年目になる。 昭和62年に入社。当時は、宇都宮で仕事をしたいという単純な動機しかなかった。その頃は「元気寿司」という名称ではなく、「元禄株式会社」という名前だった時代。宇都宮の本社は寮完備で、好条件が揃っていた。 「体育会系だったので、体を使って覚えるみたいな仕事が自分には合っていました。当時は大手製造業が台頭している時代で、ほとんどの学生の就職先がそこでした。新入社員も何百人単位で一斉に入社という形。その点、僕の場合は少ない人数の中で、自分のレベルが把握し易い環境だったと思います。例えば自分がどうすれば上に行けるか、具体的な方策が明確でした。」 結果を出し易い環境というのが、成功の一番の原因だったのかもしれない。数多くある支店の中の一つに配属が決まり、目標が更に定まった。一つの店舗は一つの組織体だった。とにかく一つ上の先輩の仕事を目指す、つまり最初の目標は「副店長」というポスト。 「昭和63年と言えば、丁度チェーン展開が色濃くなってきた時期でした。スタイルも手で寿司を握るシステムから、機械が導入されるちょうど過渡期でした。」 店長という仕事が、ものすごく格好良く見えたという。入社2年目で副店長代理へ、その後2年で副店長、24歳の時には、念願の店長へと昇り詰めた。その後、数店の店長を経験する。 「異動をネックと捉えるかどうかが、分岐点にもなります。自分はラッキーと捉えていました。色んな人に出会える機会が、直接自己成長に繋がりましたからね。出会う人の良い部分を貪欲に吸収しようとしていました。」 店長経験としては2店舗と少なめだが、宇都宮の若草店を任された時は、売上げナンバーワンを維持していた。 「店長時代の経験が、全てと言えますね。店舗立地、清掃レベル、人件費、原価率など・・・今でもそのまま活用しているノウハウをその頃、全て身に付けることが出来た。土台を作ることができたのが、店長というポストでした。元々が田舎の出身だったので、宇都宮にすごく憧れもあったと思います(笑)。うちのお店がお客様にどう思われているのか、すごく気になりましてね(笑)。」 気にしていたのは、常に「お客様の視線」。冷静な客観性と、お客様の前には自信を持って立ちたいというプライドが、更なる向上を促した。 エリアブロックとしての、店長単位の会議が毎月繰り返し行われていた。その10?15店舗の中で、まずはトップになることが次の目標になった。 「数字や結果で分かる仕事が、自分にとってはやりがいです。逆に言えば、自分の価値評価が判断できない仕事は続けられない性分なのかもしれません。」 現在は、ブロック単位で50数店の店長マネジメントを行っている。また、東京駅八重洲地下街での「東京元気寿司」など、新業態への着手も展開中だ。」
■店長時代の自分にありがとうを言いたい
「宇都宮は元気寿司の発祥の地です。でも、地元におけるイメージはどうか・・・と考えると、「古い」といったような印象が強いかもしれませんね。そんなイメージを払拭するためにも、今新しい展開を考えているところなんです。現在、30?40代の家族を持つ層は、子供の頃、元気寿司に食事に行った記憶があると思うんです。その頃の『元気』なイメージをもう一度呼び戻したいんですよね。」 宇都宮は、むしろ期待されているのではないか、と法師人さんは語る。昔からの地域でリニューアルを図ると、どっとお客様が押し寄せる実績も数あるという。「回転寿司」のコンセプトとは・・・。元気寿司に関して言えば、法師人さんは以下のようなコメントを打ち出した。
子供が喜び、はしゃぎ回る。
お母さんは、衛生的にも品質的にも安心。
お父さんは、気分が良い。
お年寄りが、元気になって力が湧く。
「今になってようやく、店長時代の整理が付いたような気がしているんですよね。あの頃は『挨拶しなさい』『キレイにしなさい』とスタッフに言っていましたが、やっぱり『自分がこうしたい』確固たるビジョンがないと人は動けないし、動かせないですよ。それを店長たちにも口を酸っぱくして言っているんです。」 「○○しなさい」でなく、「自分たちでこうしたい」という共通見解を全員で持つこと。これが何よりも大事。 「子供からお年寄りまで、身近に気軽に楽しめて食事出来る場所って、回転寿司しかないんじゃないかと思うんですよね。」 「最終的に自分が納得いくお店が出来たから、自信を持つことができたから、今の自分があります。だから、店長時代の自分には感謝もしているんです。」
■カウンターの中で寿司を握る勇気
法師人さんは、常に新しい可能性を追い求めるタイプ。そして常に次の目標が見えている。組織の中での目標が見える・・・つかめないでリタイヤする人も多いが、抱える50人の店長を、一人も落とさずとことん引っ張るのも目標の一つだ。「組織体としても色んな時代がありますよね。うちはベンチャー的要素が強いかもしれませんね。だから面白くてやめられません。」学歴や経験がなくても、身近な目標があるから頑張れた。時代に支えられたことも大きなポイントだった。「未経験でもうちは大歓迎。やる気のある、若い人たちに多く出会いたいですね。今後も増々楽しみです。」今期は那須塩原と下妻の2店舗が、新しく誕生した。「下妻はGW中に開店したんですが、実は4日間ずっとカウンターに入って寿司を握っていたんです。お客様と同じ目線でお話できたりしてね、貴重な体験でした。」 掃除や洗い物や片付けはいつでも出来る。でもカウンターの中に入るには、勇気が必要だった。 「実際に何度か過去に挑戦しようとしたんだけど、どうも躊躇してしまって・・・でも38歳の今しか出来ないと思い、10年ぶりに寿司を握りました。」一番自分が成長を遂げた店長時代をベースに、日々挑戦を忘れず恐れず、歩んできた軌跡が自信となる。かといって、基本をおろそかにしないから更に飛躍も出来るし、人の心を捉えることもできる。帰り際に見せられた寿司メニューのチラシには、法師人さんが握ったという寿司セットの写真が掲載されていた。整然と並べられた寿司は、光り輝いているように見えた。」
■エネルギーのミツウロコから生活サービスのミツウロコへ
時代は変わり、暮らしも変わる。お客様の声の向かうところに、新生ミツウロコグループの未来がある。ミツウロコグループは、1886年の創業以来、石炭や煉炭・豆炭、そして石油・LPガスと、時代に答えるエネルギーをお客様に供給し続けてきた。また、「クリーン&セーフティー」の理念を掲げ、クリーンエネルギーのリーディングカンパニーとして、エネルギーの高効率化を更に推進、また風力発電やコジェネレーションなどの新エネルギーにも積極的に取り組んでいる。一方、社会も急速に変化を遂げており、消費者ニーズも刻一刻と変化を遂げる。その多様化に向け、お客様との太いパイプの実績の元、ミツウロコではお客様の望む暮らしを提案・実現できる企業へ生まれ変わるために、新提案を続けている。今回は、(株)ミツウロコ栃木支店の支店長、大森さんにお話を伺った。「新規事業としてはグループのミツウロコ石油(株)において、5月にグランドオープンするマッハ車検が最も注目すべき事業です。SSでお客様が実際に画面で車検風景を見られるという画期的なもので、県内外でも注目されています。」その名も「マッハGoGoGo車検」。関東第一号店としての試みだ。関東拠点の地位を確立し、全国の店舗とリンクを作り、お客様が安心できるサービスを発信しようと、今、社員一丸となって準備にあたっている。モットーは、寿司屋の活気と、一流ホテルのサービスを心がけ、「一客入魂」に努める店舗展開をしていくこと。そしてお客様・従業員・会社の三者に喜ばれるような、三位一体のフォルムを築いていくこと…新規事業への熱い意気込みが伝わるコメントを頂いた。」
■徹底した人材教育
「弊社(株)ミツウロコの特徴として、勤続年数の長い社員が多い、というのがあります。嬉しいことですね。基本的には中途採用のメンバーが活躍しています。」(株)ミツウロコの教育として欠かせないのが、人材教育の徹底だ。年に何度もグループで合宿をしたり、自己啓発を目的とした研修を行っている。社員の賛同も多く、良 い人材が長く残る秘訣の一つと言える。 「時代が移るにつれ人との係わり合いが希薄になっている現代だからこそ、人材の教育は徹底して行おうと考えています。人に対して無関心になっていては、やはりダメですね。個人も組織も一緒になって変わらなければならない。対外的にも通用する人間性を、是非養いたいと考えているんです。」「昨年は目標を明確化して、人間力を強化することが目標でした。今年は、組織としてどう動けばいいか、どうすれば『生きた組織』ができるか、を念頭に進めています。」 個々人がしっかりとした意見、明確なビジョンを持ってこそ、上司と部下の関係も確立し、組織体として益々成長していく、と大森さんは語る。そんな真面目で、気持ちの面でも豊かな雰囲気が職場全体にも広がっている。来客の度に、社員の皆さんの感じの良い応対、挨拶が印象的だ「この4月よりコールセンターも設立しました。3万件くらいのお客様を登録しています。受注した内容を全て登録し、よりきめ細やかなサービスができるよう、データとしてもしっかり管理していくことを目的としているんです。」サービスに必要なものは、「感動」という大森さん。 「以前、新幹線に携帯電話を置き忘れたことがあって…その際に、電話会社の応対が非常に的を得ていて感じの良いものだったんです。その際のやりとりを全部録音させてもらって、社員全員に聞かせました。そんな気持ちの良い応対のできる社員を今後も育てていきたいですね。感動が伝えられるような、そんな内部体制が目標です。」強い会社とは、お客様との接点も強い会社だという。生活サービスのコンビニエンスショップとして…新生ミツウロコは、社内的にも社外的にも、更に強力になっていくだろう。「ミツウロコの目指すところは、『ライフサービスカンパニー』というスタンス。エネルギーのミツウロコから、生活全般に渡るサービスをお届けできる、新生ミツウロコへ。時代の変化の波に対応し、スピーディー且つダイナミックに対応していくのが目標です。」