温泉が湧き出た瞬間、肩を抱き合って喜び合ったあの日。
「勝負している」気概が生きている証。
家系に流れるのは、根っからの商売人気質だ。

■大幅なリニューアルオープンと共に、
始まった改革
大田原市内、中田原の蛇尾川の側にある、大田原温泉ホテル 龍城苑と太陽の湯。とりわけ太陽の湯においては、一昨年11月に大幅なリニューアルオープンを果たした。女子大浴場の全面改装により、新たにジェットバス・ロウリュウの楽しめるサウナ・岩露天風呂に加え、香り豊かな檜の露天風呂も新設。脱衣所も広くし、パウダールームも開設。より快適な空間へと生まれ変わった。また大浴場以外では、ゲルマニウム鉱石を含有した岩盤浴室(12床)を新設した。
「2?3年前から構想を練っていた大改築で、一昨年11月にリニューアルを果たしました。お陰様で現在では、PR効果もあってか県外からのお客様にも多くご利用いただくまでになりました。」
とは、社長の大金さん。
「しかし、やっぱり、時代の流れは厳しいことに変わりないです。平成20年9月のリーマンショック以降、さほど影響はないかなと思いきや、どっと不景気の波が押し寄せる世の中になりました。お金を使わない、持たない風潮になっていますから、今が踏ん張り時です。」
「設備投資にかけた分、ハードはしっかりと確立しましたから、次はソフトの部分を強化していかないといけない。結果を導き出さなければならない時です。ハードにプラスされたソフトが稼働しているかどうかを見定めるのが、今後の課題になってきますね。」
■立ち込め始めた硫黄の匂い
勝負に勝った
祖父から父、そして三代目として代表取締役社長に就任した大金さん。
温泉のスタートは今から28年前。元々の家業は、大田原市内に藤屋会館という結婚式場を営んでいた。
「今思えば私が高校生の頃までは、結婚式がお座敷で行われていました。大名膳に座布団で新郎新婦は正座したまま。もちろんキャンドルサービスなどありませんでした。当時の新婦さんは大変だったと思いますね。」
「私が家業に携わる頃には宴会場が洋間になり、テーブルでの披露宴に変わっていました。それと同時期に大田原市に新たな結婚式場が誕生し、競合の時期を迎えていました。当館の敷地の手狭さ等、新規参入組に苦慮していたそんな時期に、父が経営のもう一本の柱として温泉掘削を決意したのが現在のこの施設の始まりでした。」
大田原城址公園前、蛇尾川が流れる近辺は、一面田んぼの風景だった。一大決心をした温泉掘削は、昭和57年10月から翌年58年の8月まで、10ヶ月間続いた。現在においては、温泉掘削は3ヶ月くらいで終了するが、当時は3倍手間のかかる作業だった。
「温泉掘削の途中で、硬い岩盤の地層や粘土質の地層にぶつかると、1日に30センチほどしか掘削が進まないことがたびたびでした。毎日が親子鷹の世界…。父も私も、とにかく出てくれ…という祈るような気持ちで必死でした。博打に近いですよね。正に社運をかけた、賭でした。」
温泉が湧き出てきた瞬間は、生涯忘れることが出来ない。あたりに温泉特有の硫黄の匂いが立ち込め、掘削泥の臭いと入り交じって温泉が湧き出てきた。
「心の中で最高のガッツポーズ。父と肩を抱き合って大喜びしました。本当に嬉しかったですね。」
■自らを律し、
熱い思いで明日を見る
大金さんが座右の銘にしている言葉がある。
〈良馬は鞭の影を
かえりみて走る〉
黒羽町にある雲厳寺(うんがんじ)の植木老師の言葉だ。
「トップとしてもスタッフとしても、自ら言われる前に行動する。鞭を打たれる前に自ら察知
して動ける人に…という意味です。」
「お陰様でスタッフの定着率も良く、長く働いてくれるスタッフは正に宝だと思っています。トップはもちろんそうですが、お客様に満足のサービスをお届けするには、その気持ちをスタッフにまでも浸透させなければいけない。そして何よりも、言われてからやるではなくて、自ら言われる前に行動するような人を目指したいですね。」
根っからの商売人の家系に育った大金さんは、商人であることに誇りを持っている。
「出る保証はなかった源泉を掘り当てた時も、すごい怖い賭だったけれど、ああやっぱり、自分には商人としての血が流れているなと思いました。もっと安全で確実性の高い仕事はあるかもしれないけど、商売はやっぱり面白いと思います。自分が生涯において、勝負しているっていう気概が、私が一番面白いと感じる瞬間です。」
龍城苑・太陽の湯のHPはこちらですhttp://www.ohtawara-onsen.com/
栃木の大八車が、沖縄宮古島で水牛車に生まれ変わる。
捨てる人、分ける人、再度使う人。
循環型リサイクルには、人と人を繋ぐドラマがある。

■循環型リサイクルには未来が見える
答えは父の背中にあった
夢を飛ばせるような会社を立ち上げたい。そんな思いで名付けた社名が「飛行船」。鹿沼街道沿いにあるリサイクルショップ飛行船の創設は、平成18年。それよりも随分前から、現代表である桶田社長は県内のリサイクル問題に取り組んできた。今回お話しを伺ったのは、社長の息子さんである、桶田専務だ。
「物心ついた頃から、小学校・中学校と、いつも父の背中を見ながらゴミ収集の手伝いをしていました。毎週土日は手伝い、それが当たり前だと思っていました。」
桶田さんの遊びの延長線上には、いつもリサイクルがあった。
「恥ずかしい気持ちもありましたよ。でも、こんなものでもお金になるのか…というのが幼い頃から分かっていて…まさに塵も積もれば山となる。分別することでゴミが資源として生まれ変わることがすごいことだな、と思っていました。」
桶田さんが父親と同じ道を歩み始めたのが、ちょうど22歳くらいの頃。将来に行き詰まりを感じていた桶田さんは、ボランティア活動をしながら船に乗り、世界一周をする旅に出た。訪問先は発展途上国が圧倒的に多かった。屑やスクラップの山から資源を見つけ出して、お金に換えて生計を立てている人たちと交流を続けるうちに、答えは身近なところにあったことに気がついた。父のリサイクルの活動、それ自体が原点であり、やりがいのある職業であった。
「元々資源の少ない日本もリサイクルに自信を持って取り組めば、世の中がもっと明るくなるのではないかと感じました。変えられるところはたくさんある。船を降りる際には、居ても立ってもいられなくなっていましたね。」
■テーマはイメージの払拭
意識改革が、社会をより
クリーンに変えていく
「宇都宮という土地にリサイクルを根付かさせたのは、うちの父親の草の根活動が功を奏した結果でした。」
平成に入って間もない頃、まだリサイクルという言葉自体の認知度も低い時代に、父である桶田社長はゴミステーションの18種類の分別を提唱し続けていた。何十年という歳月をかけ、自治会や子供会で地域の人たちに伝えながら、回収活動を行ってきたのだ。
「今でこそリサイクルショップも増えてきましたが、その当時は言葉自体がなかったので分かってもらうことが大変でした。ひと昔前は何もかも、一緒にゴミ箱に放り込んでいましたからね。」
リサイクルとう言葉が承認され始めたのが、ここ5?10年の間。今、桶田さんが取り組んでいる課題は、「暗い・埃っぽい」リサイクルショップのイメージを払拭させることだ。その具体的な試みとしてオープンしたのが、宇都宮の鶴田にある飛行船の2店舗目。1Fがアンティークショップ、2Fが地元の無名アーティストを支援するためのギャラリーとなっている。
「万人に受け入れられ、時代に合ったイメージに変えていきたいんです。そこにある家具は全て、栃木県内の一般家庭に眠っていたものばかり。でも少し磨きを掛けるだけで、充分価値のあるものに生まれ変わるんです。楽をすればゴミになるものばかりだけど、苦労と努力でゴミの山だって宝になる。それが仕事として成り立つことが、僕にとっては幸せなんですね。」
「買取の際の、『こんなもの売れるの?』という意識改革もテーマです。不要な物に手を加えるということが、リサイクル。使わなくなったら持ってきてもらって、また次のユーザーに渡っていく。そんな循環型リサイクル社会というのが原点でなければならない。ただ少し、手を加えるだけでいいんです。安い新品を買えばいい、というのも一理あるけれど、元々日本は資源の少ない国、何から何まで新品だとすぐに底を付いてしまいます。物の寿命を決めるのはユーザー次第ですから、誰の手に渡るかで寿命も決まる。飛行船という会社から、再利用すれば使えるんだよということを伝えていきたいですね。」
買い物に来た一般のお客さんには、必ず飛行船のコンセプトを伝えるようにしている。そうすることで、使わなくなったものが発生した時に、「持ってくるなら飛行船」と認知してもらえるようになる。今、桶田さんは来る日も来る日も『意識改革』に奔走する毎日だ。
「僕のささやかな夢として、この『飛行船ファン』をもっと増やしたい、というのがあるんですね。それから、地域の皆さんとの交流も盛んに行って、社員スタッフによる家庭菜園もやってみたい。中古の農機具を利用して、良い野菜、おいしい野菜の作り方を情報交換しながら行ったり、家族連れの一般の方にもぜひ農業体験もしてほしい。それからいずれ、そこで収穫した食糧を使った飲食店やカフェも実現していきたいですね。」
■捨てる人、分ける人、
再度使う人
リサイクル業で、一番面白いと感じる瞬間について聞いてみた。
「面白いなと感じるのは、ゴミやリサイクルを通じて人と人とのドラマが生まれたり、驚きや感動、衝撃を感じられることですね。」
現在、飛行船は地元ラジにて番組を担当している。主な内容は、ゴミを出した人とそれを再利用して買ってくれた人をジョイントし、そこから生まれるエピソードを紹介していくというものだ。
「お客様の想像をはるかに超えて、ゴミがすごい生まれ変わりを果たすんです。うちの商品はネットでも販売しているので、ユーザーさんは日本全国にいるんですよ。例えば、処理に困っていた栃木からの大八車が、遠く離れた沖縄の宮古島で、水牛車として活躍していたりする。粗大ゴミが立派な観光資源に再生するんですよ。お客様同士も双方で連絡を取り合って、実際に行き来して交流が生まれたりもします。絶対数としての物資が少ない沖縄や九州地方から、栃木までわざわざ商品を見に来られるお客様も、決して少なくありません。そんなお客様の姿勢から、僕が知らなかったことを教わることがどれだけ多いか、ゴミが人と人を繋げてくれるといっても、過言じゃないんですよ。」
元々は不要物として手放されたゴミ。そこに手を加えるのも人。それを再利用するのも人。命を吹き込まれたモノたちから、日本全国で、新しいドラマが生まれている。
飛行船のHPはこちらですhttp://www.hikousen-rs.com/
まるで映画のセットを彷彿とさせるような
そこに集う人全てが幸せになれる、空間演出
磨かれた感性と情熱が、そのワンシーンを創り上げる

■失敗もいつか
自分の血となり、肉となる
27歳で起業、37歳で倒産、そして40歳で心機一転、レストラン セーシェルを立ち上げた。
「若い頃に始めた建設会社を失敗して、再建のために始めたスタートでした。建築の仕事は、クレームが多かったり資本的に厳しい面があるのに対して、飲食業はサービスメインの日銭商売でしょう、えらく対称的ですよね。元々学生の頃からいろんなアルバイトを通して、サービス業は自分に向いているという確信があったので、そんなに違和感は感じずにスタートしました。」
宇都宮の駅東にあるリゾートレストラン セーシェルを立ち上げた、寺内さん。現在では4つの会社を取り仕切る、CEO(最高経営責任者)。とにかく、テーマは「自分が行きたくなる」お店。元々の出身であった建築業をフルに活かし、設計も全て自ら行い、空間作りにはこだわった。
「普通こういったレストランのスタートって、フランチャイズから始めるのが一般的なんですけど、どうも私は昔から、人のふんどしで相撲を取ることが好きじゃなかったんです(笑)。オリジナルブランドを造りたいと思い、素人だったのにゼロからスタートしました。スタートは厨房10人、ホール20人で目標も高かったです。料理をなかなかスムーズに出すことが出来なくて、かなりお待たせしてね…烈火のごとく怒られることもあったりして、こちらも目から火の出る思いでしたよ。一番悔しかった思い出ですね。」
その頃の悔しい経験は、血となり肉となった。自分自身が成長をしていかないとダメだ、ということを痛烈に感じた時期だったという。
「経営とは、自分自身の鑑といいます。オーナーが努力していかないと、いいスタッフは絶対に集まってこないんですね。私は設計のことは多少分かっても、料理や接客サービスに関しては全く分からないことだらけだった。だから、優秀なスタッフが側にいてくれたことで本当に救われました。」
■地元宇都宮に創る、
映画のセットのような通り
セーシェルを立ち上げて3年目に、レストランウエディングをスタート。景気の低迷が本格化し、一般消費が行き詰まる中、何か新しい企画を、と思い立ったのがきっかけだった。
「広くて雰囲気のいいセーシェルの空間だったら、箱としては抜群だろうと思いました。結婚式で幸せなお二人の姿を見ていると、本当に感動的なんですよね。まるで映画みたいに…。」
元々映画が大好きという寺内さん。幼少の頃は映画好きのご両親の影響もあって、ロードショーを観ることが習慣だった。
「私は特に、ウエディングの空間なんかはお店と、お客様と、スタッフが一心同体になってくるような瞬間が好きで、それが一枚の映像としても幸福感を感じられる風景なんですよね。今でも趣味は映画鑑賞、あと音楽です。料理やサービスにおいて、技術も知識も乏しい自分でしたが、せめて感性だけは年を重ねても磨いておきたい。例えば、映画の中の一コマがビジネスのヒントになる場合もたくさんあるんですよ。」
宇都宮の錦にあるカフェ・レストラン セーシェルの空間は、まさに映画のセットの様な造りだ。十字架の前にはライトアップされたバージンロード、周りは来賓席で囲まれ、サイドには大型スクリーン。音響設備も最高レベルのもので演出する。
「よく、東京で出さないのか?と質問されることもあるんですけど、私にとっては地元である宇都宮に出すことに意味があるので、この地に出すことしか考えていませんでした。」
錦にあるカフェ・レストラン セーシェルが面する通りを、寺内さんは「バロック通り」と命名している。
「隣接するロバーツさん、アトリエグループさんの美容室と並んで、うちのセーシェル、ここに並ぶ店舗の皆さんと協力して、ある一つのドラマ仕立てのようなメイン通りを作り上げたいなと思っているんです。映画に出てくるような雰囲気のある町並みをね。」
■経営者は50歳から
今がまさに旬の時
寺内さんの今後の夢について、伺ってみた。
「将来的には、いつかリゾートをやってみたいと考えています。コテージがあって、宿泊施設、レストラン、それから結婚式場も兼ね備えている総合的な空間。若い頃はね、会社を大きくして上場したいと野望を持っていた時期もあったんですけど(笑)、今は全く違いますね。いいものを造りたい、感動してもらいたい気持ちが強いから、クオリティの高さにはとことんこだわっていたい。また、それだけの空間を取り仕切るためのサービス教育、ホスピタリティこそ、徹底して極めたい分野でもあるんですよ。」
そんな寺内さんの座右の銘は、
「挑戦無くして成長無し」。
「共感できる経営者としては、京セラの稲森会長。守りにずっと入るのではなくて、好機をうかがってそれをつかんで、確実に成長していけたら、と思うんです。」
「政治家も50歳から、というように私自身も、経営者は50歳からだと考えているところがあります。経験値や知識が、フルに活かせている時、私にとってそれが、今なんです。」
ル モンドグループのHPはこちらです
http://lemonde.jp/
24に、更にプラス「1カラット」
宝石が持つ「非日常の幸福」を手頃な卸価格値で
お客様の普段づかいにも、届けていきたい

■もっとジュエリーを楽しんでもらうために
こだわりたい
「例えば日頃ジュエリーを身に付けない方でも、まず手に取って、美しさだとか、非日常性だとかを感じ取ってもらいたい思いが強いんですよね。」
東武宇都宮店の前にある、宝石市場は、25KARAT(株)が経営するジュエリーショップ。うたい文句は、「宝石店に並ぶ前の商品が、365日卸売り価格!」というものだ。代表取締役の高野社長に、お話しを伺った。
「元々うちの祖父が時計の卸商をやっていまして、祖父から3代続く商売人の家系に生まれました。宝石を取り扱い始めたのは、私の代からです。祖父も父も、仕事に一生懸命で厳しい根っからの商売人でした。」
「今から思えば良い経験だった」と語る高野さんは25年前、東京都内の宝石を扱う会社で営業マンとして、全国を行脚してきた。朝は北海道、夜は九州入りというスケジュールの時もあった。1年のうち320日は日本中を飛び回っていた。
「時には畑のど真ん中で、青空市みたいな感じでセールスをしたことも…(笑)。全国のご当地の名産品を振る舞ってもらうこともあったりして、いい思い出も多いです。25年前だからコンビニがあったわけでもなく、田舎のエリアに入ってしまうと夜食を買いに行くお店もない。仕方ないから缶ジュースでお腹を満たして寝たりなど、若かったからこそ踏ん張れたのかもしれませんね。」
時代はちょうどバブル期だったのも功を奏した。1日100万円の売上も高確率で達成できていた。
「豊かな時代だったから、頑張れたっていうのもありましたね。売るということにどん欲にもなれた。今の時代だったら絶対に経験出来ないことでした。ハードな環境ではありましたけど、景気がいい時に多少苦労を重ねてきた方が、時代が厳しくなった時に糧になりますから、本当にいい勉強をさせてもらったと思います。」
都内の会社には7年間ほど勤務し、地元栃木に戻ってきた。そして父の経営している会社を手伝い始めた。
「初めて宝飾部門をたちあげました。今まで自分が取引させていただいていたのは、エンドユーザーであるお客様そのものでしたが、それがこの時から小売店様に変わりました。」
■良心価格で高品質な物が
支持される時代
「バブルという好景気のど真ん中を経験しているので、その頃から考えると人の価値観も驚くほど変わったと思います。商品もそう、買い物の仕方も然りです。宝石というものも、景気がいい時は財産として買い求めて、使用目的ではなく奥にしまい込んで持っておく買い方が多かったですね。石自体も『大きければいい』という価値観だったと思います。でも今は、ハイレベルなファッション性が求められます。安くても高品質。そんな商品が支持され、ブランドへと確立している時代なので、本来であればある程度値段が付くものも安く手に入れて、気軽に手頃に、日常で楽しまれる方が増えたように思います。」
全国各地、また東京都内でも販売経験のある高野さん。栃木の地域性についてもお話しを伺った。
「中心地の宇都宮に関してですが、地域性を重視しているお店が多いと思います。ただ、どうしても選択肢という点から言えば都内などには叶いません。そこが一番のネックではあるんですが、売れ筋商品の情報は全国に一斉に流れてくるので、『栃木には合わない』などと売る側の都合で決めるのではなく、もっとタイムリーにたくさんの商品が流通されるように活気が出ればすごくいいと思うんです。物販を扱う経営者の姿勢が、もっとお客様に失礼がないように、たくさんの選択肢の中から最新の商品を選べるようになることが、理想なんだと思います。」
■24カラット プラス「1」
最新の売れ筋情報や、流行にも敏感でなければならない。以前勤めていた会社の同僚達ともコンタクトを取りながら、商品の流れを常に押さえるようにしているという高野さん。
「そんな小さな努力を重ねながら、私が一番目指していることは会社を大きくすることとか、スタッフを増やすとかいうことではなくて、常にお客様のために、愛されるお店作りをすること。その純粋な思いで突っ走って来ました。。」
高野さんは、取材中に何度も、「いつも感謝の気持ちを忘れないで、お客様に喜ばれるお店作りのために、努力をし続けたい」と語った。
「いいものを安く、という願いから『365日卸売価格』というコンセプトを掲げています。ジュエリーの楽しみ方を理屈抜きでこれからもお伝えしたい、その気持ちはずっと変わりません。『今日はいつもと違うね』とか、『そのネックレス似合うね』とか、そんなちょっとした日常使いのジュエリーが人を輝かせる、幸せを感じる瞬間を味わって欲しい。経営理念とか、利益とかも大事だけど、私にあるのはまず、その気持ちです。」
会社名である25KARATには、高野社長の思いが込められている。金の純度の最高レベルを表す24K。そこにプラス1を加えて25KARAT。そのプラス1カラットに、最高のサービスであったり、笑顔であったり、そんな付加価値をプラスできる会社でありたいという意味だ。
宝石という物販に際し、お客様のために、今できることは何か。高野さんはいつも、プラス1の答えを追い求めている。
メイドインジャパンを世界へ。
熟練工の魂が作り上げた部品の一つ一つが、
日本ブランドの価値を、今一度呼び起こさせる。

■祖父の遺言に導かれて
祖父は鹿沼で、ホットカイロに使用する鉄粉を造る仕事をしていた。昭和34年、高度経済成長の波に乗って、製造業へと以降。そんな祖父にいつも言われていたことは、「いずれ俺の会社はお前に継がせる」という言葉だった。
鹿沼の(有)エヌ・エステクニカル、代表取締役の森田さん。元々都内で、ホテルマンや不動産の仕事に従事していた。そんな折り、祖父の死の知らせを受ける。奇しくも祖父の命日が、森田さんの誕生日と重なった。
「その頃やっていた不動産業も波に乗っていたので、かなり迷ったんですけど、これは何かの啓示だといたく感じまして、製造業に転職することを決めました。」
とはいうものの、右も左も分からない未経験の業種。まず最初に職業訓練の「NC旋盤コース」を受講する。半年間猛勉強を重ね、プログラム通りにものが出来ていく面白さを実感した。その後経験を重ね、24歳である自動車部品メーカーの求人に応募、半年間勤務した。
「その頃は景気が良かったので業界自体は好調でしたが、自分がものづくりの世界で、どこまで出来るか試してみたくなったんです。」
祖父が遺してくれた古い機械を全て出し、3人体制でスタートした。同業種で会社を経営していた叔父もかなり協力してくれた。
「祖父が亡くなってしばらく経ってその偉大さに気づいたんですけど、有り難いことにうちの顧客の半分は祖父の代からのお客様なんですね。最初は叔父なんかに、2?3割の技術は教えてもらって、残りの7割くらいは試行錯誤しながら、自己流でした。」
失敗を何度も繰り返しながら、徹夜で少しずつ歩を進めていった。夜中に帰宅し、深夜3時に再び気になって工場で作業を再開することも度々あった。徐々に実績が認められ、3?4年後には信頼を得るようになった。
「段々欲がでてきたんですね。人も機械も投入して、もっと大きくできるんじゃないかと。その頃叔父の会社が『超微細加工』で成功していたので、うちも真似てみようと手を出したんです。」
ところが結果は、1年ほどやって失敗に終わった。数千万円のマイナスが出た。
「でも諦めてはいけない、と原点に戻りました。叔父にも叱咤激励されましたね。」
復活を祈って次に着目したもの、それが、現在のエヌ・エステクニカルの核となっている「難削材(なんさくざい)」だ。
「字の通りやりにくい材質なんで、他社が嫌がる部品なんです。でもうちはそれに着目して、研究を重ねて製造を可能にしました。自信を持って、各種難削材を造っている、と言えるようにまでなりました。」
■若手へ伝承される、熟練の技
「悔しかったことといえば、若さがネックになることでした。20代の頃は信用してもらえないことも多かったです。今は逆にそれを強みにすることも出来ますが、今に見てろ…と思いながら、がむしゃらに頑張ってきました。」
今、エヌ・エステクニカルを支えているのは、若さだけではない。その対極にあるのは、昔からの熟練の腕を持つ60?70代の職人達だ。
「職人の皆さんにはマニュアルはない。全て経験値から成るものです。それってすごいことですよね。現場では熟練職人と、20代の若手が組んで仕事をしています。」
当初は困難に思えたこの組み合わせが、今、功を奏している。若い新しい発想と古くからの高い技術力が融合して、製品レベルも、効率の面でも結果が出た。
「時代が変わりこのコラボレーションが本当に上手くいくようになったんです。数年前は休憩時間も各自バラバラに取っていましたが、今では休みまでみんな一緒(笑)。世代を超えて、それだけ息も合っているってことですよね。」
今は、「見て覚えろ」という徒弟制度的な時代ではない、と森田さんは語る。
「そういった昔ながらの頑固職人的な教え方だけはやめてくれ、と言ってます。同じ会社のチームメイトなんだから、知識や技術は共有するべき。60代の熟練工に、23歳の若い社員が技術を教わっている、いつの間にかできるようになっている事実が現場で実践されているんですよね。そんな光景を見る度に本当に嬉しい。細かい製造における力加減を密に教わっているんです。勤務が終わったら世代の離れている社員同士で夜釣りに行ったりもしている(笑)、笑っちゃうような事実なんですけど、コミュニケーションを取りつつもそうやって、ハイレベルな技が伝承されていることを誇りに思います。」
そんなエヌ・エステクニカルの求人募集広告には「楽しいものづくり」というキャッチコピーが使われるようになった。
「昔は社内の雰囲気が、受身だったんですよね。でも今は違う。社員間の雰囲気も改善されて、提案型に変わりました。こうした方がいいんじゃないか、という現場の声がやがて、小さな町工場を企業へと発展させていくはずです。」
■見直されるべき、ジャパンブランド
「以前、インドの方で日本製の血圧計を買いに来られた方がいました。中国や東南アジアなど、世界には製造業で台頭してきた国は多くある、でもやっぱりナンバーワンは日本製だと。にもかかわらず秋葉原全体を探しても、メイドインジャパンの商品は見つからなかったそうです。発注は日本なのに、多くの製品がメイドインチャイナや、メイドインベトナムなんですよね。海外での製造製品は確かに安い、でも性能では日本製に勝てる物はないと、海外の方は口を揃えて言うわけです。なんだか我々日本人の感覚は間違っているんじゃないかと痛切に感じた経験がありました。」
メイドインジャパン、それだけで海外ではブランドの価値がある。純正の日本製品が少ない、その事実を改めて突きつけられた。ものづくりに携わっている者である以上、その現実を見過ごすことは出来なかった。
「弊社は鹿沼の小さな工場ですが、メイドインジャパンの精神を忘れてはいけない。会社のキャッチコピーにも、『メイドインジャパンを世界へ』と入れることにしました。この言葉に外国の方はすぐ反応してくれます。それから、高度経済成長期に育まれた職人気質を忘れてはいけないですよね。日本人が忘れかけている、安売りしすぎる傾向にあるこの価値を創ってきたのが、当時第一線で活躍して、今は60代以上になっているかつての職人達です。こういった職人の立ち位置をもっと大事に確保していかねばならないと思います。」
品質、デリバリー、コスト。この3つの柱を万全に保持しておく、それがエヌ・エステクニカルが守り続けてきたもの。60代以上の現場職人達は言う。昔はドリルも研磨機もなかった。だが日本人は手先が器用で細かい作業に長けた気質で、ハイレベルで細密な要求に応えてきた。
「実際に、うちの現場の職人達はマニュアルがなくても、相応の細かい機械がなくても、要求のレベルが高い部品も今ある道具で造ってしまうんですよね。その熟練技のすごさには、未だに驚かされます。」
「刻々と状況が変わってきて、今、製造業関連の工場が急速に衰退している現状があります。でも、メイドインジャパンの安売りはしてはいけない。世界がこれだけ評価しているんだから、本物であることは間違いないんです。」
鹿沼の町外れにその工場はある。少数精鋭の工場で作られている部品の納入先には、名だたる大企業が名を連ねる。トレイに並べられた部品は鈍い光りを放ち、陳列されていた。メイドインジャパンのプライド。その小さな町工場は今、業界でも注目される存在となっている。
(有)エヌエステクニカルのHPはこちらです
http://www.nst-jpn.co.jp/