其の九 真田信繁

今回は真田十勇士などで有名な真田信繁こと
真田幸村のおっさんです!それではどうぞ〜!

講談や小説など一般には「真田幸村」の名前で通っているこのおっさん、しかし現存する書状や資料では「幸村」という名前は存在していなく、江戸時代以降に流行った、小説や講談における真田信繁のニックネームとなっているみたいです。その幸村という名前があまりにも普遍化してしまったために江戸期以降の幕府が作った家系図にも信繁ではなく幸村という名前で載ってる始末・・・ややこしいおっさんですね(笑)。真田家の家紋は六文銭、三途の川の渡り賃ですね。この旗印の意味は「不惜身命」仏法のために身命をささげて惜しまないこと・・・う〜ん気合い入りまくりですね。活躍した時代ですが、織田信長の時代から江戸時代初期の頃まで戦国を駆け抜けたおっさんです。領地を守るためや、秀吉に取り入るために人質になったりとしていたりもするのですが、待遇は結構良かったみたいですね(ちゃっかり別の領地を与えられたりもしています。)秀吉の死後、関ヶ原の戦いなどでは西軍の方に参戦したためお兄ちゃんの信之と袂を分かつことにもなっちゃったりしています。その後、大阪冬の陣・夏の陣と戦があるのですが、夏の陣で討ち死にしてしまいます。しかしこの戦いでは家康の本陣にガチで飛び込み凄まじい勢いで攻め込んでいき、家康がその迫力で自害まで考えたみたいです。しかし数で断然上回る徳川軍に追い詰められて最後は討ち取られてしまう結果になっています。幸村のおっさんが評価されたのは結構遅くて大阪冬の陣あたりからその名前が広まってきました。その後江戸時代になって「真田三代記」などで広まっていきこの中で真田十勇士なども確立してきたみたいです。ちなみにこの十勇士ですが猿飛佐助、霧隠才蔵、根津甚八、由利鎌之助、筧十蔵、三好清海入道、三好伊三入道、望月六郎、海野六郎、穴山小介。などが一般に知れ渡っているメンバーです。これが定着してきたのは明治末から大正初期のあたりでホントにちょっと前の事になります。そして現代では小説にとどまらず、映画や大河ドラマ、ゲームやコミック、はたまた
ミュージカルなんてのもあって大活躍?しています。
それだけ魅力のあるおっさんなのかもしれませんね。

| パーマリンク | | 2010.08.02 |

其の八 武田信玄

さて今回のおっさんもビッグネームですよ!
あの「風林火山」で有名な武田のおっさんこと武田信玄の
おっさんです!

風林火山の旗印で有名ですが、実は武田のおっさんよりも前にこの旗印を使っている人がいました。信玄よりさかのぼること200年前、南北朝時代に北畠顕家が使っていました。しかし一般的には武田のおっさんの方が皆さんご存じかと思います。冒頭から彼の腰を折ってしまいましたが、この風林火山「疾(と)きこと風の如く、徐(しず)かなること林の如く、侵(おか)し掠(かす)めること火の如く、動かざること山の如し」、もともとは孫子の兵法書に記されており「移動するときは風のように速く、静止するのは林のように静かに、攻撃するのは火のように。隠れるには陰のように、防御は山のように、出現は雷のように突 然に」と言う意味があるそうです。それにこのおっさん現在でも、地元の山梨県をはじめ全国的に高い知名度を持ち、人気を集めている戦国武将のおっさんです。冒頭にあった風林火山の軍旗の下、甲斐の虎と呼ばれ強大な武田軍を率い、上杉謙信のライバルとしてのイメージもあったりします。武田信玄と上杉謙信と言えば川中島の戦いじゃ〜ないでしょうか?12年にも及ぶ千曲川を分けての戦いは両雄の歴史でもあります。さてさて信玄のおっさんの人物像ですが、多くの寺社に寄進をしてみたり、自分も出家してみたりと一般には仏教を信仰しているように見えるのですが、これまたどっこい!出家後も多くの側室をはべらせたりして俗世との関わりは絶たずにいて・・・いわゆるなまぐさ坊主?的な良く言えば人間味のあるおっさんです(笑)
そんな武田のおっさんなのですが良いことも言っているので紹介します。
「人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり」
どれだけ城を堅固にしても、人の心が離れてしまったら世を治めることはできない。情けは人をつなぎとめ、結果として国を栄えさせるが、仇を増やせば国は滅びるという意味だそうです。
さて、このおっさんも現代ではテレビドラマになったり
歴史漫画だったりテレビゲームにとひっぱりだこです。
武田のおっさんに限らず個性あふれるおっさんがこれ
からもドンドン出てきますよ〜!それではまたぁ〜!

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其の七 豊臣秀吉

今年の梅雨はどうなるのだろうと少し心配しつつ行きます
さて今回紹介するおっさんはこのお方です。サル!サル!
と言うニックネームで織田信長に呼ばれ続けて、いく年月!豊臣秀吉のおっさんです!

今回はちょっと趣向を変えておっさんのプロフィールから紹介します。
秀吉おっさんですがの安土桃山時代の武将で尾張中村の人。
織田信長の足軽木下弥右衛門ので幼名日吉丸。初名木下藤吉郎。のち羽柴秀吉。織田信長に仕え、軍功によって重用され、筑前守となる。
本能寺の変後、明智光秀を討ち、四国・九州・関東・奥羽を征して1590年天下を統一。この間、85年関白、翌年豊臣姓を賜って太政大臣となり、91年関白を養子秀次に譲り太閤と称した。また、検地・刀狩りを実施、兵農の分離を徹底し、幕藩体制に至る基礎を築いた。文禄・慶長の役で朝鮮に出兵、戦果があがらないまま、伏見城で病没。ざっと書くとこんな感じのおっさんです。織田信長の奉公人として仕え始めた秀吉のおっさんですが他の人がなかなかやりたがらない仕事をどんどん引き受け成果を上げていき信長の目にとまっていきました。良く聞く逸話だと思いますが、寒い日に信長の草履を懐にいれておき暖めておいたなんてのを聞きますが、信長にサル!サル!と呼ばれながらも今に成り上がってやるという気合いを持って頑張ってきたおっさんです。
明治から昭和の戦前にかけては、富国強兵政策や身分が低いながらも関白太政大臣になったということで民衆の手本にしようという試みもあり、好意的に捉えられることが多くその評価では、日本では武将ながら愛嬌に満ちた存在、武力より知略で勝利を得るなど、陽的な人物とされ、「太閤さん」と呼ばれることも多い。このような評価から創られた物語では、信長を怜悧な天才、家康を実直な慎重家と設定し、彼らとの対比で秀吉を陽気な知恵者として描かれることが多いおっさんです。鳴かぬなら鳴かせてみせようほととぎす。なんて後世に評価されているおっさんです。あの手この手を駆使して身分としては最下層にいた秀吉ですが、日本の頂上まで登りつめた、まさに戦国ドリームを勝ち取った人の1人でもありますね。

| パーマリンク | | 2010.06.12 |

其の六 伊達政宗

五月ですよみなさん!ごーがーつー!前半はGWなんかもあってみなさんウキウキでテンションなんかも
当社比で150%位なのではないでしょうか?さて今回のおっさんはこの方!独眼竜のおっさんです!

はい、独眼竜というキーワードで知っている人も多いかと思います。さて伊達のおっさんですが、わたしが始めて
会ったのは仙台へバイクでツーリングに行ったとき、仙台城青葉山公園にどーんと像がそびえ立っていて
お〜!かっこえ〜の〜!と言う思い出からです。さてこのおっさん小さい頃病気により片眼をを失明してしまう
アクシデントに見舞われてしまうのですが、それにもめげず戦国の世を駆け抜けていったイカスおっさんです。
異端で派手好みだったみたいですが、父親の輝宗は小さいころから武将としての素質を見抜いており
早くから家督を政宗にしたいと言っていたみたいですね。流石ですね〜!よく、後10年早く生まれていたら
戦国の世も変わっていたかもしれないと言われる政宗のおっさんですが、当時豊臣秀吉が織田信長の全国統一事業を
継承しており秀吉と対立していたのですが、京に上洛して恭順の意を示せと再三にわたりいわれていて、仕方なく
最後は秀吉に服属することになってしまいます。しかし心の内はメラメラと野心にもえゆるおっさんです。その後、
秀吉の世となっていき、「朝鮮に喧嘩を売る!」と秀吉がのたまうのですが、あんまりみんな乗り気じゃない感漂って
いるなか、出兵する自軍の兵に豪華絢爛な装束をさせ、京の民衆をわかせました。それ以後派手な格好をしていると
「伊達物」なんていわれたそうな・・・しかしこれも朝鮮出兵で自軍の兵を無駄死にさせないための策だったそうです。
その後江戸時代になり三代目の家光の代まで生き抜いた伊達のおっさん、家光にはかなり慕われていたそうです。
辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」目が見えないからこそ人の心ははっきりと
見えてくる物があるのかと勝手な解釈ですが今回はこの辺で・・・今回は伊達のおっさんでした〜〜!

| パーマリンク | | 2010.06.01 |

其の伍 古田重然

年度も変わりいよいよ春って感じがしてきました!黄砂も中国から飛んできたり、花粉症の人のくしゃみが
凄かったりと春の訪れを感じる今日この頃!さて今回のおっさんはこの人!古田重然のおっさんです!

このおっさんとの出会いは漫画雑誌の「へうげもの」という本をなにげに手にした所からのお付き合いになります。
ドカンと有名かというとそうでもなくマニアチックな匂いをかぐわす今回のおっさん!!歴史的には茶人「古田織部」
(通称左介)として有名です。織田信長、豊臣秀吉と仕え、江戸初期まで生き抜いた生粋の戦国大名おっさんです。
千利休に弟子入りして茶の湯を学び、後に利休七哲のひとりとされるほどの文化人であったみたいです。イカスね〜!
利休亡き後、茶の湯を通じて朝廷、貴族、寺社、経済界と様々なつながりを持ち名実ともにまさしく天下の茶人として
全国の大名に多大な影響を与える存在となっていった!ん〜!かっこいいね〜!戦いの世の中にあって文化でてっぺんを
目指すなんてさすが古田のおっさん!(そういう事も大切だったんだけどね・・・) このおっさん、師匠の利休から
「人と違うことをせよ」という教えを忠実に実行して利休の静謐さと対照的な動的で破調の美を確立させ、「織部好み」
なんて呼ばれる一大流行を広めちゃったんだからこれまた・・・いい仕事してますなぁ〜なんて中島誠之助も真っ青!!
陶芸家の加藤唐九郎のおっさん曰く「利休は自然の中から美を見いだした人だが作り出した人ではない。重然は
美を作り出した人で、芸術としての陶器は織部から始まっている」・・・いわゆるクリエーター?ちがうかぁ〜!
その上、反骨精神旺盛なおっさんだったらしいから色々とやんちゃもしたんだろうね〜・・・最後は徳川陣営から
疑いをかけられて切腹させられちゃうんだけど一言も釈明はしなかったそうです。戦国の世にあってどか〜んと
ひと山当てた古田のおっさんです。興味が出てきたという人はとりあえず「へうげもの」から入ってみてはいかが?
さてさて今月は古田織部こと古田重然のおっさんでした!ドンドンドンドン!パフ〜パフ〜!

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