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   <title>vol.104　vol.103　大田原温泉ホテル龍城苑／日帰り温泉館太陽の湯　代表取締役　大金　幸仁さん</title>
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   <published>2010-03-03T02:04:47Z</published>
   <updated>2010-03-03T03:17:38Z</updated>
   
   <summary>温泉が湧き出た瞬間、肩を抱き合って喜び合ったあの日。 「勝負している」気概が生き...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">温泉が湧き出た瞬間、肩を抱き合って喜び合ったあの日。
「勝負している」気概が生きている証。
家系に流れるのは、根っからの商売人気質だ。
<img alt="taiyou.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/taiyou.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">
■大幅なリニューアルオープンと共に、
始まった改革
</font><br/><font size="2">


大田原市内、中田原の蛇尾川の側にある、大田原温泉ホテル 龍城苑と太陽の湯。とりわけ太陽の湯においては、一昨年11月に大幅なリニューアルオープンを果たした。女子大浴場の全面改装により、新たにジェットバス・ロウリュウの楽しめるサウナ・岩露天風呂に加え、香り豊かな檜の露天風呂も新設。脱衣所も広くし、パウダールームも開設。より快適な空間へと生まれ変わった。また大浴場以外では、ゲルマニウム鉱石を含有した岩盤浴室（12床）を新設した。
「2〜3年前から構想を練っていた大改築で、一昨年11月にリニューアルを果たしました。お陰様で現在では、PR効果もあってか県外からのお客様にも多くご利用いただくまでになりました。」
とは、社長の大金さん。

「しかし、やっぱり、時代の流れは厳しいことに変わりないです。平成20年9月のリーマンショック以降、さほど影響はないかなと思いきや、どっと不景気の波が押し寄せる世の中になりました。お金を使わない、持たない風潮になっていますから、今が踏ん張り時です。」
「設備投資にかけた分、ハードはしっかりと確立しましたから、次はソフトの部分を強化していかないといけない。結果を導き出さなければならない時です。ハードにプラスされたソフトが稼働しているかどうかを見定めるのが、今後の課題になってきますね。」




</font><br/><br/><font size="3">
■立ち込め始めた硫黄の匂い
勝負に勝った
</font><br/><font size="2">



祖父から父、そして三代目として代表取締役社長に就任した大金さん。
温泉のスタートは今から28年前。元々の家業は、大田原市内に藤屋会館という結婚式場を営んでいた。
「今思えば私が高校生の頃までは、結婚式がお座敷で行われていました。大名膳に座布団で新郎新婦は正座したまま。もちろんキャンドルサービスなどありませんでした。当時の新婦さんは大変だったと思いますね。」
「私が家業に携わる頃には宴会場が洋間になり、テーブルでの披露宴に変わっていました。それと同時期に大田原市に新たな結婚式場が誕生し、競合の時期を迎えていました。当館の敷地の手狭さ等、新規参入組に苦慮していたそんな時期に、父が経営のもう一本の柱として温泉掘削を決意したのが現在のこの施設の始まりでした。」
　大田原城址公園前、蛇尾川が流れる近辺は、一面田んぼの風景だった。一大決心をした温泉掘削は、昭和57年10月から翌年58年の8月まで、10ヶ月間続いた。現在においては、温泉掘削は3ヶ月くらいで終了するが、当時は3倍手間のかかる作業だった。
「温泉掘削の途中で、硬い岩盤の地層や粘土質の地層にぶつかると、１日に３０センチほどしか掘削が進まないことがたびたびでした。毎日が親子鷹の世界…。父も私も、とにかく出てくれ…という祈るような気持ちで必死でした。博打に近いですよね。正に社運をかけた、賭でした。」
　温泉が湧き出てきた瞬間は、生涯忘れることが出来ない。あたりに温泉特有の硫黄の匂いが立ち込め、掘削泥の臭いと入り交じって温泉が湧き出てきた。
「心の中で最高のガッツポーズ。父と肩を抱き合って大喜びしました。本当に嬉しかったですね。」

</font><br/><br/><font size="3">■自らを律し、
熱い思いで明日を見る
</font><br/><font size="2">

大金さんが座右の銘にしている言葉がある。

〈良馬は鞭の影を
　かえりみて走る〉

黒羽町にある雲厳寺（うんがんじ）の植木老師の言葉だ。
「トップとしてもスタッフとしても、自ら言われる前に行動する。鞭を打たれる前に自ら察知
して動ける人に…という意味です。」
「お陰様でスタッフの定着率も良く、長く働いてくれるスタッフは正に宝だと思っています。トップはもちろんそうですが、お客様に満足のサービスをお届けするには、その気持ちをスタッフにまでも浸透させなければいけない。そして何よりも、言われてからやるではなくて、自ら言われる前に行動するような人を目指したいですね。」
　根っからの商売人の家系に育った大金さんは、商人であることに誇りを持っている。
「出る保証はなかった源泉を掘り当てた時も、すごい怖い賭だったけれど、ああやっぱり、自分には商人としての血が流れているなと思いました。もっと安全で確実性の高い仕事はあるかもしれないけど、商売はやっぱり面白いと思います。自分が生涯において、勝負しているっていう気概が、私が一番面白いと感じる瞬間です。」

龍城苑・太陽の湯のHPはこちらです<a href="http://www.ohtawara-onsen.com/">http://www.ohtawara-onsen.com/</a>]]>
      
   </content>
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   <title>vol.103　リサイクルショップ飛行船　専務取締役  桶田　博信さん</title>
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   <published>2010-02-18T07:27:07Z</published>
   <updated>2010-02-18T07:39:24Z</updated>
   
   <summary>栃木の大八車が、沖縄宮古島で水牛車に生まれ変わる。 捨てる人、分ける人、再度使う...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">栃木の大八車が、沖縄宮古島で水牛車に生まれ変わる。
捨てる人、分ける人、再度使う人。
循環型リサイクルには、人と人を繋ぐドラマがある。
<img alt="hikousen.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/hikousen.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">
■循環型リサイクルには未来が見える
答えは父の背中にあった
</font><br/><font size="2">



夢を飛ばせるような会社を立ち上げたい。そんな思いで名付けた社名が「飛行船」。鹿沼街道沿いにあるリサイクルショップ飛行船の創設は、平成18年。それよりも随分前から、現代表である桶田社長は県内のリサイクル問題に取り組んできた。今回お話しを伺ったのは、社長の息子さんである、桶田専務だ。
「物心ついた頃から、小学校・中学校と、いつも父の背中を見ながらゴミ収集の手伝いをしていました。毎週土日は手伝い、それが当たり前だと思っていました。」
桶田さんの遊びの延長線上には、いつもリサイクルがあった。
「恥ずかしい気持ちもありましたよ。でも、こんなものでもお金になるのか…というのが幼い頃から分かっていて…まさに塵も積もれば山となる。分別することでゴミが資源として生まれ変わることがすごいことだな、と思っていました。」
　桶田さんが父親と同じ道を歩み始めたのが、ちょうど22歳くらいの頃。将来に行き詰まりを感じていた桶田さんは、ボランティア活動をしながら船に乗り、世界一周をする旅に出た。訪問先は発展途上国が圧倒的に多かった。屑やスクラップの山から資源を見つけ出して、お金に換えて生計を立てている人たちと交流を続けるうちに、答えは身近なところにあったことに気がついた。父のリサイクルの活動、それ自体が原点であり、やりがいのある職業であった。
「元々資源の少ない日本もリサイクルに自信を持って取り組めば、世の中がもっと明るくなるのではないかと感じました。変えられるところはたくさんある。船を降りる際には、居ても立ってもいられなくなっていましたね。」


</font><br/><br/><font size="3">
■テーマはイメージの払拭
意識改革が、社会をより
クリーンに変えていく
</font><br/><font size="2">



　「宇都宮という土地にリサイクルを根付かさせたのは、うちの父親の草の根活動が功を奏した結果でした。」
平成に入って間もない頃、まだリサイクルという言葉自体の認知度も低い時代に、父である桶田社長はゴミステーションの18種類の分別を提唱し続けていた。何十年という歳月をかけ、自治会や子供会で地域の人たちに伝えながら、回収活動を行ってきたのだ。
「今でこそリサイクルショップも増えてきましたが、その当時は言葉自体がなかったので分かってもらうことが大変でした。ひと昔前は何もかも、一緒にゴミ箱に放り込んでいましたからね。」
　リサイクルとう言葉が承認され始めたのが、ここ5〜10年の間。今、桶田さんが取り組んでいる課題は、「暗い・埃っぽい」リサイクルショップのイメージを払拭させることだ。その具体的な試みとしてオープンしたのが、宇都宮の鶴田にある飛行船の2店舗目。1Fがアンティークショップ、2Fが地元の無名アーティストを支援するためのギャラリーとなっている。
「万人に受け入れられ、時代に合ったイメージに変えていきたいんです。そこにある家具は全て、栃木県内の一般家庭に眠っていたものばかり。でも少し磨きを掛けるだけで、充分価値のあるものに生まれ変わるんです。楽をすればゴミになるものばかりだけど、苦労と努力でゴミの山だって宝になる。それが仕事として成り立つことが、僕にとっては幸せなんですね。」
「買取の際の、『こんなもの売れるの？』という意識改革もテーマです。不要な物に手を加えるということが、リサイクル。使わなくなったら持ってきてもらって、また次のユーザーに渡っていく。そんな循環型リサイクル社会というのが原点でなければならない。ただ少し、手を加えるだけでいいんです。安い新品を買えばいい、というのも一理あるけれど、元々日本は資源の少ない国、何から何まで新品だとすぐに底を付いてしまいます。物の寿命を決めるのはユーザー次第ですから、誰の手に渡るかで寿命も決まる。飛行船という会社から、再利用すれば使えるんだよということを伝えていきたいですね。」
　買い物に来た一般のお客さんには、必ず飛行船のコンセプトを伝えるようにしている。そうすることで、使わなくなったものが発生した時に、「持ってくるなら飛行船」と認知してもらえるようになる。今、桶田さんは来る日も来る日も『意識改革』に奔走する毎日だ。
「僕のささやかな夢として、この『飛行船ファン』をもっと増やしたい、というのがあるんですね。それから、地域の皆さんとの交流も盛んに行って、社員スタッフによる家庭菜園もやってみたい。中古の農機具を利用して、良い野菜、おいしい野菜の作り方を情報交換しながら行ったり、家族連れの一般の方にもぜひ農業体験もしてほしい。それからいずれ、そこで収穫した食糧を使った飲食店やカフェも実現していきたいですね。」

</font><br/><br/><font size="3">■捨てる人、分ける人、
再度使う人
</font><br/><font size="2">

リサイクル業で、一番面白いと感じる瞬間について聞いてみた。
「面白いなと感じるのは、ゴミやリサイクルを通じて人と人とのドラマが生まれたり、驚きや感動、衝撃を感じられることですね。」
現在、飛行船は地元ラジにて番組を担当している。主な内容は、ゴミを出した人とそれを再利用して買ってくれた人をジョイントし、そこから生まれるエピソードを紹介していくというものだ。
「お客様の想像をはるかに超えて、ゴミがすごい生まれ変わりを果たすんです。うちの商品はネットでも販売しているので、ユーザーさんは日本全国にいるんですよ。例えば、処理に困っていた栃木からの大八車が、遠く離れた沖縄の宮古島で、水牛車として活躍していたりする。粗大ゴミが立派な観光資源に再生するんですよ。お客様同士も双方で連絡を取り合って、実際に行き来して交流が生まれたりもします。絶対数としての物資が少ない沖縄や九州地方から、栃木までわざわざ商品を見に来られるお客様も、決して少なくありません。そんなお客様の姿勢から、僕が知らなかったことを教わることがどれだけ多いか、ゴミが人と人を繋げてくれるといっても、過言じゃないんですよ。」
元々は不要物として手放されたゴミ。そこに手を加えるのも人。それを再利用するのも人。命を吹き込まれたモノたちから、日本全国で、新しいドラマが生まれている。


飛行船のHPはこちらです<a href="http://www.hikousen-rs.com/">http://www.hikousen-rs.com/</a>]]>
      
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   <title>vol.102　セーシェルグループ　CEO最高経営責任者  寺内　美孝さん</title>
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   <published>2010-01-05T08:31:10Z</published>
   <updated>2010-01-05T08:42:46Z</updated>
   
   <summary>まるで映画のセットを彷彿とさせるような そこに集う人全てが幸せになれる、空間演出...</summary>
   <author>
      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">まるで映画のセットを彷彿とさせるような
そこに集う人全てが幸せになれる、空間演出
磨かれた感性と情熱が、そのワンシーンを創り上げる
<img alt="rumond.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/rumond.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">
■失敗もいつか
自分の血となり、肉となる
</font><br/><font size="2">



　27歳で起業、37歳で倒産、そして40歳で心機一転、レストラン セーシェルを立ち上げた。
「若い頃に始めた建設会社を失敗して、再建のために始めたスタートでした。建築の仕事は、クレームが多かったり資本的に厳しい面があるのに対して、飲食業はサービスメインの日銭商売でしょう、えらく対称的ですよね。元々学生の頃からいろんなアルバイトを通して、サービス業は自分に向いているという確信があったので、そんなに違和感は感じずにスタートしました。」
　宇都宮の駅東にあるリゾートレストラン セーシェルを立ち上げた、寺内さん。現在では4つの会社を取り仕切る、CEO（最高経営責任者）。とにかく、テーマは「自分が行きたくなる」お店。元々の出身であった建築業をフルに活かし、設計も全て自ら行い、空間作りにはこだわった。
「普通こういったレストランのスタートって、フランチャイズから始めるのが一般的なんですけど、どうも私は昔から、人のふんどしで相撲を取ることが好きじゃなかったんです（笑）。オリジナルブランドを造りたいと思い、素人だったのにゼロからスタートしました。スタートは厨房10人、ホール20人で目標も高かったです。料理をなかなかスムーズに出すことが出来なくて、かなりお待たせしてね…烈火のごとく怒られることもあったりして、こちらも目から火の出る思いでしたよ。一番悔しかった思い出ですね。」
　その頃の悔しい経験は、血となり肉となった。自分自身が成長をしていかないとダメだ、ということを痛烈に感じた時期だったという。
「経営とは、自分自身の鑑といいます。オーナーが努力していかないと、いいスタッフは絶対に集まってこないんですね。私は設計のことは多少分かっても、料理や接客サービスに関しては全く分からないことだらけだった。だから、優秀なスタッフが側にいてくれたことで本当に救われました。」


</font><br/><br/><font size="3">
■地元宇都宮に創る、
映画のセットのような通り
</font><br/><font size="2">



　セーシェルを立ち上げて3年目に、レストランウエディングをスタート。景気の低迷が本格化し、一般消費が行き詰まる中、何か新しい企画を、と思い立ったのがきっかけだった。
「広くて雰囲気のいいセーシェルの空間だったら、箱としては抜群だろうと思いました。結婚式で幸せなお二人の姿を見ていると、本当に感動的なんですよね。まるで映画みたいに…。」
　元々映画が大好きという寺内さん。幼少の頃は映画好きのご両親の影響もあって、ロードショーを観ることが習慣だった。
「私は特に、ウエディングの空間なんかはお店と、お客様と、スタッフが一心同体になってくるような瞬間が好きで、それが一枚の映像としても幸福感を感じられる風景なんですよね。今でも趣味は映画鑑賞、あと音楽です。料理やサービスにおいて、技術も知識も乏しい自分でしたが、せめて感性だけは年を重ねても磨いておきたい。例えば、映画の中の一コマがビジネスのヒントになる場合もたくさんあるんですよ。」
　宇都宮の錦にあるカフェ・レストラン セーシェルの空間は、まさに映画のセットの様な造りだ。十字架の前にはライトアップされたバージンロード、周りは来賓席で囲まれ、サイドには大型スクリーン。音響設備も最高レベルのもので演出する。
「よく、東京で出さないのか？と質問されることもあるんですけど、私にとっては地元である宇都宮に出すことに意味があるので、この地に出すことしか考えていませんでした。」
　錦にあるカフェ・レストラン セーシェルが面する通りを、寺内さんは「バロック通り」と命名している。
「隣接するロバーツさん、アトリエグループさんの美容室と並んで、うちのセーシェル、ここに並ぶ店舗の皆さんと協力して、ある一つのドラマ仕立てのようなメイン通りを作り上げたいなと思っているんです。映画に出てくるような雰囲気のある町並みをね。」

</font><br/><br/><font size="3">■経営者は50歳から
今がまさに旬の時
</font><br/><font size="2">

寺内さんの今後の夢について、伺ってみた。
「将来的には、いつかリゾートをやってみたいと考えています。コテージがあって、宿泊施設、レストラン、それから結婚式場も兼ね備えている総合的な空間。若い頃はね、会社を大きくして上場したいと野望を持っていた時期もあったんですけど（笑）、今は全く違いますね。いいものを造りたい、感動してもらいたい気持ちが強いから、クオリティの高さにはとことんこだわっていたい。また、それだけの空間を取り仕切るためのサービス教育、ホスピタリティこそ、徹底して極めたい分野でもあるんですよ。」

　そんな寺内さんの座右の銘は、
「挑戦無くして成長無し」。
「共感できる経営者としては、京セラの稲森会長。守りにずっと入るのではなくて、好機をうかがってそれをつかんで、確実に成長していけたら、と思うんです。」
「政治家も50歳から、というように私自身も、経営者は50歳からだと考えているところがあります。経験値や知識が、フルに活かせている時、私にとってそれが、今なんです。」


ル モンドグループのHPはこちらです
<a href="http://lemonde.jp/">http://lemonde.jp/</a>]]>
      
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   <title>vol.101　25KARAT株式会社　代表取締役  高野　幸雄さん</title>
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   <published>2009-11-27T02:30:09Z</published>
   <updated>2010-03-26T15:31:00Z</updated>
   
   <summary>24に、更にプラス「1カラット」 宝石が持つ「非日常の幸福」を手頃な卸価格値で ...</summary>
   <author>
      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">24に、更にプラス「1カラット」
宝石が持つ「非日常の幸福」を手頃な卸価格値で
お客様の普段づかいにも、届けていきたい
<img alt="houseki.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/houseki.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">
■もっとジュエリーを楽しんでもらうために
こだわりたい
</font><br/><font size="2">


「例えば日頃ジュエリーを身に付けない方でも、まず手に取って、美しさだとか、非日常性だとかを感じ取ってもらいたい思いが強いんですよね。」
　東武宇都宮店の前にある、宝石市場は、25KARAT（株）が経営するジュエリーショップ。うたい文句は、「宝石店に並ぶ前の商品が、365日卸売り価格！」というものだ。代表取締役の高野社長に、お話しを伺った。
「元々うちの祖父が時計の卸商をやっていまして、祖父から3代続く商売人の家系に生まれました。宝石を取り扱い始めたのは、私の代からです。祖父も父も、仕事に一生懸命で厳しい根っからの商売人でした。」
　「今から思えば良い経験だった」と語る高野さんは25年前、東京都内の宝石を扱う会社で営業マンとして、全国を行脚してきた。朝は北海道、夜は九州入りというスケジュールの時もあった。1年のうち320日は日本中を飛び回っていた。
「時には畑のど真ん中で、青空市みたいな感じでセールスをしたことも…（笑）。全国のご当地の名産品を振る舞ってもらうこともあったりして、いい思い出も多いです。25年前だからコンビニがあったわけでもなく、田舎のエリアに入ってしまうと夜食を買いに行くお店もない。仕方ないから缶ジュースでお腹を満たして寝たりなど、若かったからこそ踏ん張れたのかもしれませんね。」
　時代はちょうどバブル期だったのも功を奏した。1日100万円の売上も高確率で達成できていた。
「豊かな時代だったから、頑張れたっていうのもありましたね。売るということにどん欲にもなれた。今の時代だったら絶対に経験出来ないことでした。ハードな環境ではありましたけど、景気がいい時に多少苦労を重ねてきた方が、時代が厳しくなった時に糧になりますから、本当にいい勉強をさせてもらったと思います。」

　都内の会社には7年間ほど勤務し、地元栃木に戻ってきた。そして父の経営している会社を手伝い始めた。
「初めて宝飾部門をたちあげました。今まで自分が取引させていただいていたのは、エンドユーザーであるお客様そのものでしたが、それがこの時から小売店様に変わりました。」

</font><br/><br/><font size="3">
■良心価格で高品質な物が
支持される時代
</font><br/><font size="2">


「バブルという好景気のど真ん中を経験しているので、その頃から考えると人の価値観も驚くほど変わったと思います。商品もそう、買い物の仕方も然りです。宝石というものも、景気がいい時は財産として買い求めて、使用目的ではなく奥にしまい込んで持っておく買い方が多かったですね。石自体も『大きければいい』という価値観だったと思います。でも今は、ハイレベルなファッション性が求められます。安くても高品質。そんな商品が支持され、ブランドへと確立している時代なので、本来であればある程度値段が付くものも安く手に入れて、気軽に手頃に、日常で楽しまれる方が増えたように思います。」
　全国各地、また東京都内でも販売経験のある高野さん。栃木の地域性についてもお話しを伺った。
「中心地の宇都宮に関してですが、地域性を重視しているお店が多いと思います。ただ、どうしても選択肢という点から言えば都内などには叶いません。そこが一番のネックではあるんですが、売れ筋商品の情報は全国に一斉に流れてくるので、『栃木には合わない』などと売る側の都合で決めるのではなく、もっとタイムリーにたくさんの商品が流通されるように活気が出ればすごくいいと思うんです。物販を扱う経営者の姿勢が、もっとお客様に失礼がないように、たくさんの選択肢の中から最新の商品を選べるようになることが、理想なんだと思います。」

</font><br/><br/><font size="3">■24カラット　プラス「1」
</font><br/><font size="2">

最新の売れ筋情報や、流行にも敏感でなければならない。以前勤めていた会社の同僚達ともコンタクトを取りながら、商品の流れを常に押さえるようにしているという高野さん。
「そんな小さな努力を重ねながら、私が一番目指していることは会社を大きくすることとか、スタッフを増やすとかいうことではなくて、常にお客様のために、愛されるお店作りをすること。その純粋な思いで突っ走って来ました。。」
　高野さんは、取材中に何度も、「いつも感謝の気持ちを忘れないで、お客様に喜ばれるお店作りのために、努力をし続けたい」と語った。
「いいものを安く、という願いから『365日卸売価格』というコンセプトを掲げています。ジュエリーの楽しみ方を理屈抜きでこれからもお伝えしたい、その気持ちはずっと変わりません。『今日はいつもと違うね』とか、『そのネックレス似合うね』とか、そんなちょっとした日常使いのジュエリーが人を輝かせる、幸せを感じる瞬間を味わって欲しい。経営理念とか、利益とかも大事だけど、私にあるのはまず、その気持ちです。」
　会社名である25KARATには、高野社長の思いが込められている。金の純度の最高レベルを表す24K。そこにプラス1を加えて25KARAT。そのプラス1カラットに、最高のサービスであったり、笑顔であったり、そんな付加価値をプラスできる会社でありたいという意味だ。
　宝石という物販に際し、お客様のために、今できることは何か。高野さんはいつも、プラス1の答えを追い求めている。
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<entry>
   <title>vol.100　有限会社エヌ・エステクニカル　代表取締役  森田　健太さん</title>
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   <published>2009-11-02T09:29:38Z</published>
   <updated>2009-11-19T00:41:37Z</updated>
   
   <summary>メイドインジャパンを世界へ。 熟練工の魂が作り上げた部品の一つ一つが、 日本ブラ...</summary>
   <author>
      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">メイドインジャパンを世界へ。
熟練工の魂が作り上げた部品の一つ一つが、
日本ブランドの価値を、今一度呼び起こさせる。
<img alt="enuesujpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/enuesujpg" width="200" height="300" />



</font><br/><br/><font size="3">
■祖父の遺言に導かれて
</font><br/><font size="2">


祖父は鹿沼で、ホットカイロに使用する鉄粉を造る仕事をしていた。昭和34年、高度経済成長の波に乗って、製造業へと以降。そんな祖父にいつも言われていたことは、「いずれ俺の会社はお前に継がせる」という言葉だった。
　鹿沼の（有）エヌ・エステクニカル、代表取締役の森田さん。元々都内で、ホテルマンや不動産の仕事に従事していた。そんな折り、祖父の死の知らせを受ける。奇しくも祖父の命日が、森田さんの誕生日と重なった。
「その頃やっていた不動産業も波に乗っていたので、かなり迷ったんですけど、これは何かの啓示だといたく感じまして、製造業に転職することを決めました。」
とはいうものの、右も左も分からない未経験の業種。まず最初に職業訓練の「NC旋盤コース」を受講する。半年間猛勉強を重ね、プログラム通りにものが出来ていく面白さを実感した。その後経験を重ね、24歳である自動車部品メーカーの求人に応募、半年間勤務した。
「その頃は景気が良かったので業界自体は好調でしたが、自分がものづくりの世界で、どこまで出来るか試してみたくなったんです。」
　祖父が遺してくれた古い機械を全て出し、3人体制でスタートした。同業種で会社を経営していた叔父もかなり協力してくれた。
「祖父が亡くなってしばらく経ってその偉大さに気づいたんですけど、有り難いことにうちの顧客の半分は祖父の代からのお客様なんですね。最初は叔父なんかに、2〜3割の技術は教えてもらって、残りの7割くらいは試行錯誤しながら、自己流でした。」
失敗を何度も繰り返しながら、徹夜で少しずつ歩を進めていった。夜中に帰宅し、深夜3時に再び気になって工場で作業を再開することも度々あった。徐々に実績が認められ、3〜4年後には信頼を得るようになった。
「段々欲がでてきたんですね。人も機械も投入して、もっと大きくできるんじゃないかと。その頃叔父の会社が『超微細加工』で成功していたので、うちも真似てみようと手を出したんです。」
ところが結果は、1年ほどやって失敗に終わった。数千万円のマイナスが出た。
「でも諦めてはいけない、と原点に戻りました。叔父にも叱咤激励されましたね。」
　復活を祈って次に着目したもの、それが、現在のエヌ・エステクニカルの核となっている「難削材（なんさくざい）」だ。
「字の通りやりにくい材質なんで、他社が嫌がる部品なんです。でもうちはそれに着目して、研究を重ねて製造を可能にしました。自信を持って、各種難削材を造っている、と言えるようにまでなりました。」

</font><br/><br/><font size="3">
■若手へ伝承される、熟練の技
</font><br/><font size="2">


「悔しかったことといえば、若さがネックになることでした。20代の頃は信用してもらえないことも多かったです。今は逆にそれを強みにすることも出来ますが、今に見てろ…と思いながら、がむしゃらに頑張ってきました。」
　今、エヌ・エステクニカルを支えているのは、若さだけではない。その対極にあるのは、昔からの熟練の腕を持つ60〜70代の職人達だ。
「職人の皆さんにはマニュアルはない。全て経験値から成るものです。それってすごいことですよね。現場では熟練職人と、20代の若手が組んで仕事をしています。」
　当初は困難に思えたこの組み合わせが、今、功を奏している。若い新しい発想と古くからの高い技術力が融合して、製品レベルも、効率の面でも結果が出た。
「時代が変わりこのコラボレーションが本当に上手くいくようになったんです。数年前は休憩時間も各自バラバラに取っていましたが、今では休みまでみんな一緒（笑）。世代を超えて、それだけ息も合っているってことですよね。」
　今は、「見て覚えろ」という徒弟制度的な時代ではない、と森田さんは語る。
「そういった昔ながらの頑固職人的な教え方だけはやめてくれ、と言ってます。同じ会社のチームメイトなんだから、知識や技術は共有するべき。60代の熟練工に、23歳の若い社員が技術を教わっている、いつの間にかできるようになっている事実が現場で実践されているんですよね。そんな光景を見る度に本当に嬉しい。細かい製造における力加減を密に教わっているんです。勤務が終わったら世代の離れている社員同士で夜釣りに行ったりもしている（笑）、笑っちゃうような事実なんですけど、コミュニケーションを取りつつもそうやって、ハイレベルな技が伝承されていることを誇りに思います。」
　そんなエヌ・エステクニカルの求人募集広告には「楽しいものづくり」というキャッチコピーが使われるようになった。
「昔は社内の雰囲気が、受身だったんですよね。でも今は違う。社員間の雰囲気も改善されて、提案型に変わりました。こうした方がいいんじゃないか、という現場の声がやがて、小さな町工場を企業へと発展させていくはずです。」

</font><br/><br/><font size="3">■見直されるべき、ジャパンブランド
</font><br/><font size="2">

「以前、インドの方で日本製の血圧計を買いに来られた方がいました。中国や東南アジアなど、世界には製造業で台頭してきた国は多くある、でもやっぱりナンバーワンは日本製だと。にもかかわらず秋葉原全体を探しても、メイドインジャパンの商品は見つからなかったそうです。発注は日本なのに、多くの製品がメイドインチャイナや、メイドインベトナムなんですよね。海外での製造製品は確かに安い、でも性能では日本製に勝てる物はないと、海外の方は口を揃えて言うわけです。なんだか我々日本人の感覚は間違っているんじゃないかと痛切に感じた経験がありました。」
　メイドインジャパン、それだけで海外ではブランドの価値がある。純正の日本製品が少ない、その事実を改めて突きつけられた。ものづくりに携わっている者である以上、その現実を見過ごすことは出来なかった。
「弊社は鹿沼の小さな工場ですが、メイドインジャパンの精神を忘れてはいけない。会社のキャッチコピーにも、『メイドインジャパンを世界へ』と入れることにしました。この言葉に外国の方はすぐ反応してくれます。それから、高度経済成長期に育まれた職人気質を忘れてはいけないですよね。日本人が忘れかけている、安売りしすぎる傾向にあるこの価値を創ってきたのが、当時第一線で活躍して、今は60代以上になっているかつての職人達です。こういった職人の立ち位置をもっと大事に確保していかねばならないと思います。」
　品質、デリバリー、コスト。この3つの柱を万全に保持しておく、それがエヌ・エステクニカルが守り続けてきたもの。60代以上の現場職人達は言う。昔はドリルも研磨機もなかった。だが日本人は手先が器用で細かい作業に長けた気質で、ハイレベルで細密な要求に応えてきた。
「実際に、うちの現場の職人達はマニュアルがなくても、相応の細かい機械がなくても、要求のレベルが高い部品も今ある道具で造ってしまうんですよね。その熟練技のすごさには、未だに驚かされます。」
「刻々と状況が変わってきて、今、製造業関連の工場が急速に衰退している現状があります。でも、メイドインジャパンの安売りはしてはいけない。世界がこれだけ評価しているんだから、本物であることは間違いないんです。」
　鹿沼の町外れにその工場はある。少数精鋭の工場で作られている部品の納入先には、名だたる大企業が名を連ねる。トレイに並べられた部品は鈍い光りを放ち、陳列されていた。メイドインジャパンのプライド。その小さな町工場は今、業界でも注目される存在となっている。


（有）エヌエステクニカルのHPはこちらです
<a href="http://www.nst-jpn.co.jp/">http://www.nst-jpn.co.jp/</a>]]>
      
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   <title>Vol.99　株式会社青い空コーポレーション　代表取締役社長  永島　富夫さん</title>
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   <published>2009-10-13T06:17:30Z</published>
   <updated>2009-10-13T06:25:01Z</updated>
   
   <summary>お客様のために、従業員のために、 今、私に何ができるかというのがテーマ。 店舗作...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
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      <![CDATA[<font size="3">お客様のために、従業員のために、
今、私に何ができるかというのがテーマ。
店舗作りも、そこから始まる。
<img alt="menkomati.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/menkomati.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">
■原点は母の手作りうどん
</font><br/><font size="2">

「うどん屋を始めたきっかけはもう単純に、うどんが好きだったからです。」
　宇都宮市御幸町、国道4号線沿いにある「めん小町 御幸町店」を立ち上げた、（株）青い空コーポレーションの永島社長。
「手打ちうどんは、母の18番の料理で、本当にプロが作るような美味しさでした。宇都宮は元々そば文化圏でした。栃木でも県南の方にはうどん文化が存在しています」。


おふくろのうどんの味を求めて始まっためん小町 御幸町店だが、定着には時間がかかった。
「スタート時は苦労もありました。うどん文化を受け入れてもらい難い感じでしたね。『蕎麦はないの？』と言われることも多くて。うどんと蕎麦を両方提供するお店も多いですが、うちではそれはやらない方針でした。うどんと同じ釜で蕎麦を茹でることは出来ない。蕎麦アレルギーのお客様もいらっしゃいますからね。そしてうどんと蕎麦では茹で上がりの時間も違う。お客様のグループがそれぞれ、うどんと蕎麦を頼まれたら出てくる時間に差ができてしまう。利点としては、うどんは料理としてもバラエティに富んでいるし、女性や子供にも好まれます。」
　めん小町 御幸町店でずっと守り続けているのは、お客様の健康を第一に考えた手作り食材を守ること。
「今では少なくなりましたが、うどんのつゆの源となる『返し』を、うちでは手間暇かけて、手作りで作っています。だしは自然素材から抽出して、化学調味料は一切使っていません。京都の老舗の鰹節を取り寄せています。返しは一ヶ月くらい寝かせるとまろやかな味になるんです。」
　なぜそこまでこだわったかというと、お客様のために、まず美味しくて健康に良いものが一番だろう、という発想からだった。永島さんの発想の原点にはいつも、お客様のため、従業員のためというベースがある。
　めん小町 御幸町店を立ち上げてから3年間、朝8時から夜の11時まで、永島さんは厨房でずっとうどんを茹でてきた。永島さんには、胸に温めていたある目標があった。もし3年間、ずっとうどん屋として続けてこられたら、もう一店飲食店を作ろう。その3年目が今年の10月1日になる。
「厨房で黙々とうどんを茹で続けてきたら、3年で11キロ痩せました（笑）。」


</font><br/><br/><font size="3">
■お客様の立場で経営を考える
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3年経った現在、めん小町御幸町店に隣接する立地で、焼肉店出店の立ち上げに奮闘中。うどん店とはまた様相を変え、新しく立ち上げる焼肉店にも絶対に譲れない信念がある。「焼肉店は行くと高い、家族で行くには懐に余裕がある時だけ」、という印象を覆すお店だ。
「とにかく、『旨い、安い、ボリュームたっぷり』をシンプルに掲げたいと思います。バブル期と今とでは時代が全く違いますから、同様のコンセプトでは上手くいかない。不景気だけど繁盛店は存在している。ビールの値段も500円〜580円が主流になっていますが何とか四苦八苦、交渉を重ねて、新店では430円を可能にしました。ドリンクバーもランチタイム90円を実現したんです。」
　不景気で財布のヒモは締まってくる。個人レベルでも「マイ水筒持参」などの工夫が見られるようになっている。とはいえ、人は外食の楽しさを知っている。定額給付金が配布される際、使い途に関してのアンケートを取った結果上位に上がったのが、「焼肉をお腹いっぱい食べたい」という回答だった。
「焼肉店で、『うまい、安い、ボリュームたっぷり』、これを実現するには至難の業でした。うまいを追求すると、安いは実現しなくなる。ボリュームたっぷりを追い求めると、うまいが難しくなる…といった感じで、互いが相反するからなんです。」
　ただ、永島さんは自分のコンセプトを決してぶらさなかった。現状の焼肉店…といえば、アルコールドリンクを売らんがため、ダイニング系の店舗が多く、内外装・人件費共に経費のかかるスタイルが主流となっている。しかしお客様の本心はといえばうまい焼肉を腹一杯食べたい、出来れば安く、これが本音であるということに目をつけた。メニュー構成でいえば、うまい、安い、ボリュームたっぷりをストレートに達成するため、高品質低価格を際だたせた。お客様の熱い願望を実現させることが、繁盛店の条件だと考えた。
「業者さんもこの考えに賛同して、協力してもらったんですよ。とにかくお客さんが一番喜ぶこと、それは焼肉を腹一杯、美味しく安く食べることです。」

　元気な店、繁盛店の指標についても伺った。
「繁盛店の要素は多々あると思いますが、従業員の『いらっしゃいませ』の挨拶時の表情が良いことが一番ですね。人が声を出す時、好きな人の前とか前向きな状態の時は音程でいう『ソ』の高さで話すと言われています。好感音とも言われるんですけど、その高さで挨拶ができるお店は、繁盛店ですね。」
「経営者はお客様の立場で経営を考え、いかにお客様に喜んでもらえる店を作るか。これが飲食業のプロと言えるのではないでしょうか。」
「私は外食が好きです、食べ物にも全く好き嫌いがありません。人に対しても好き嫌いがないんです。」
永島さんにとって、飲食店とは正に『ヒューマンビジネス』、この一言に尽きる。]]>
      
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   <title>vol.98　株式会社 鈴屋　ミッシェルリゾート事業部 ミッシェルリゾートウエディング那須　支配人  鈴木 成太朗さん</title>
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   <published>2009-09-19T00:28:49Z</published>
   <updated>2009-11-19T00:39:37Z</updated>
   
   <summary>「信頼」という２文字で繋がったプロフェッショナル チームが手がけるブライダルは、...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">「信頼」という２文字で繋がったプロフェッショナル
チームが手がけるブライダルは、年間1000組を超える。
100年先も現存する式場を目指し未来を馳せる。
<img alt="michel.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/michel.jpg" width="200" height="300" />



</font><br/><br/><font size="3">
■前を走る父の背中を追って
</font><br/><font size="2">


株式会社鈴屋は、那須塩原での小さな呉服店からスタートした。今ではウエディングを始め、アジア諸国の家具・雑貨店、写真館、宝飾事業など、事業は何倍にも拡大し、多岐にわたる。那須高原のセントミッシェル教会などを含むグループは、年間1000組以上のリゾートウエディングプロデュースを手がける。
　代表取締役の鈴木社長の長男で、現在ウエディング部門の支配人である鈴木さん。10年ほど前に家業である（株）鈴屋に入社し、各部門を担当。この7月にウエディング部門に着任した。
「先だって大改造が行われたばかりで、人員の大移動がありました。これまで私は何年間も、アジアンオールドバザールという複合ショップの、雑貨などを専門に扱う部門を統括していました。ブライダルに関わる事業は初めてになります。」
　幼い頃から父の背中を見て育った。学生の頃は反発もした。最初は家業を継ぐ気はなく、製造業務の仕事をしていた。
「時々土日に人手が足りないからと、家業を手伝うことがありました。ラインの仕事とは違って人と接するところから始まる仕事なので、やっぱりこっちの方が自分には合ってるなと思ってましたね。」
　間接的ではあったが、働く父親の近くにいるとそのすごさに気づくことが何度もあった。
「愚痴も弱音も吐かず365日仕事にいそしんでいる姿を見て、この人すごいなあと思う瞬間がたくさんありました。これまでは家族として身近すぎて気づかなかったんですよね。社員からも尊敬されているのがよく分かる。そんな父親から頭を下げて、家業を手伝ってくれとの依頼を受けたのが10年前。こんなすごい人が本気で言ってくれてるわけだから、断ることは出来ないと思いました。」
　社長である父親の人間性に惚れ込んで入社した。実の息子とはいえ特別扱いはない。他の社員と同じように、新人からスタートした。
「現在私は、実家で父と同居しているんです。自ら望んだんですが、父が仕事以外ではどのように日常を過ごすか、その裏舞台も知っておきたいという思いがあったからなんです。」

</font><br/><br/><font size="3">
■現場スタッフの声に耳を傾ける
</font><br/><font size="2">


会社で初めての業務は、アジア諸国への買い付けの仕事だった。社長が訪れたバリで、家具や雑貨に心底惚れ込んだことをきっかけに、バリ家具や雑貨の専門ショップを新規で立ち上げる話が持ち上がっていた。毎月の仕入れに各国を訪れるスタイルが、その後何年か続いた。
「最初はウブド那須といってバリ専門店だけだったのですが、4年間のうちにはベトナムやネパールなどの専門店も加わって、アジアンオールドバザールという複合ショップが完成しました。年の半分は海外で過ごしていましたが、中には命に関わるような危険が伴うこともありました。」
　社歴も長くなり、部下を持つようになると様々な悩みや壁も出てくるようになる。そんな時にある出来事が起こった。
「スタッフ同士のミーティングの際、部下から涙ながらに『もっと時間を作ってくれないか』と訴えられたんです。その頃の僕はワンマンな運営をしていたと思います。トップダウンで進めていたことも多かった。現場のスタッフを無視していたんですね。スタッフに『信頼されていない気がする』と訴えられた時は、頭をハンマーで殴られたような衝撃がありました。
　それから、鈴木さんの意識は現場主義へと大きく変化した。現場で実際に働くスタッフのことを大切に思うようになった。
「今、私が所属するブライダル部門のスタッフ、みんな最高レベルの人間が揃っていると自負しています。各分野におけるプロ意識はもちろん、お客様への最高のサービスをと常に考えている心豊かなスタッフばかり。どこに出しても恥ずかしくないと思っています。」
「先日とても感激したエピソードがありました。遠方より見学に来られたお客様がいらっしゃった時に、まだ入社数ヶ月の新人のスタッフ達がこぞって、自分が案内役を…と我先に名乗り出てくれたこと。嬉しかったですね。まだまだ未熟かもしれない、でも自分に今出来る最高のおもてなしをしていました。分からないことがあればすぐに先輩の助言を聞きに飛んで来ながら、一生懸命館内を案内する姿…新人といえ、責任逃れをするようなスタッフは一人もいないというそんな姿勢を、とても誇りに思いました。」
　この7月に鈴木さんが着任して10日目に、スタッフの前でスピーチをする機会があった。そこで鈴木さんはこうスピーチした。
「このスタッフとだったら、必ずやっていける。私は確信しています。是非一緒にやっていきましょう。」
　その後に開かれた歓迎会では、スタッフ達から感謝の言葉を贈られた。

</font><br/><br/><font size="3">■失われることのない
現存する式場でありたい
</font><br/><font size="2">

「結婚式というと、確かにその日限りのセレモニーかもしれない。でも生涯に一度、二人が誓いを立てて結ばれる大切なセレモニーですよね。だから、私はその日限りというような関係性でのサービスはできるだけしたくないと考えています。友人というのもおかしいですが、出来ればお客様と弊社のスタッフは、特別な関係であり続けたいんです。」
　5年先、10年先もつながりのある関係性でいたいという思いから顧客管理体制を強化したり、式を終えたら一歩も足を運ばないというのではなく、記念日には食事ができるようにレストランも併設した。レストランを利用されるご夫婦にはメッセージ付のスイーツや、写真を撮影するなどサプライズ的なサービスも実施している。販促物等にも独自のこだわりを持っている。お客様の立場でとらえ、心のこもったものをお伝えしたい。だから敢えて手書きで書くという事も今後、取り組んでいくそうだ。
「ブライダルってお二人にとってはかけがえのない思い出となるものなのに、仕事としてやってしまうと式の一つ一つが『こなし作業』になっていく時がある。それってすごく危険だなと以前感じたことがあるので、絶対にそうならないようにするのが私たちの役割です。お二人が喜ぶのは当たり前、目指すのはゲストから１００点満点をもらえるウエディングですね。」
　荘厳な造りの教会は、一つ一つの資材を海外から取り寄せ、細部にまでこだわりぬいた強固で美しい造り。
「安く仕上げることは出来ますが、１００年先も残っていく建物にしたかったんです。自分たちが式を挙げた場所が失われてしまうのは悲しいことだと思うんです。30年先、50年先も現存する式場でありたい。そして時を刻んで、親子２代でこの式場で式を挙げられる方が増えていけば…と夢見てます。」

「ブライダルは、本当に良いお仕事です。」
感慨深く頷きながら発せられるその言葉には、仕事へのプライド充実感が感じられた。]]>
      
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   <title>Vol.97　株式会社奴寿司　代表取締役　藤咲　光司さん</title>
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   <published>2009-08-19T03:06:46Z</published>
   <updated>2009-08-19T10:14:26Z</updated>
   
   <summary>花を作るよりも先に、根を張れ。 地道な努力はやがて、大輪の「華」を咲かせ、 宇都...</summary>
   <author>
      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">花を作るよりも先に、根を張れ。
地道な努力はやがて、大輪の「華」を咲かせ、
宇都宮の食文化に鮮やかな彩りを添えた。
<img alt="susihana.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/susihana.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">
■父の背中を見て育まれた寿司職人としての軌跡
</font><br/><font size="2">


先代の父が、鬼怒川温泉で「奴寿司」ののれんを立ち上げたのがそもそもの始まり。幼少時代は実家である鹿沼と鬼怒川温泉を行ったり来たりする暮らしだった。
　株式会社奴寿司の代表取締役、藤咲社長。高校卒業後すぐ、寿司職人としての修行が始まった。
「厳しい父親でしたから、そんな父の背中を見て、自ずと自分もこの世界で…という気持が固まってきました。父の姿で一番印象に残っているのは、とにかくお客様を第一に考えていたことです。お金を十分持ってきていないお客様に対しても、財布が底を付きそうになったら隣の酒屋でお酒を買ってくるように勧め、おつまみを振る舞っていました。」
　18歳から、先輩板前を師匠としてまず出前や皿洗い、仕込からスタート。寿司を実際に握らせてもらえたのは20歳を過ぎてからだった。独自の考えと発想から我流で学び続け、「全国寿司商組合」が主催する、寿司技術コンクールに出場。全国で金賞に輝くのは10人、地方予選で勝ち抜くことも容易ではない世界だった。4年に1度のコンクールで初回は散々だったが、3度目の挑戦の時についに金賞を受賞する。昭和61年31歳の時だった。
　その5年後、父親が他界し、代表取締役に就任。新しい店作りの拠点を宇都宮へと移動させる。そして現在のすし華亭長岡店が誕生した。
「私自身、寿司職人としての生涯を貫き通すと決めています。技術を磨き、仕入の目利き、仕込みも手間を惜しまない。回転レーンを江戸前寿司のカウンターに見立てて、職人がすしを握りながら、対面型でお客様とコミュニケーションを取っていく。江戸前寿司屋そのものを感じられる店をつくりたかった。」
　要領を得ていないオープン当初は、営業終了後の深夜ミーティング、そのまま店舗で仮眠を取って朝の仕込みに入る日々が続いた。宇都宮の人にうまい寿司を安心して食べられる場所を提供したい・・・長岡店は軌道に乗った。 

</font><br/><br/><font size="3">
■経営者に迫られた変革の時</font><br/><font size="2">


「長岡店の成功には、立地が良かったなど言われますが、本当の理由はそこではないんです。」
　すし華亭の接客には定評がある。元気なスタッフの威勢のいい声がフロアに響き、おもてなしの心を大切にしたきめ細かいサービスが行き届いている。社員、パートさんに至るまで、活き活きと働く職場。そんな雰囲気が出来るまでには、藤咲さん自身の、ある変革があった。
「回転寿司をオープンしてから、働く社員数、客数、売上はこれまでより圧倒的に急増しました。数字が伸びていく中、私のワンマン気質で采配はしていたものの、やはり指示、命令だけでは形だけになってしまうんですね。何かが足りない。このままいったらどうなるのか。経営者としてなにをすべきか、と大きな壁にぶつかったんです。そんな時に、都内の研修会社の社長、松田友一氏と出会い、彼の研修を受け、大きな変革を迎えました。自分は何のためにお寿司を提供しているのか、なぜ寿司じゃないとダメなのか、とことん自問自答し、商いは真心だと気付いたんです。」
　この気付きは「真心を器にのせて、お客様の喜びに感謝しています」という会社理念となり、社員一人一人へと浸透していった。
「成長、発展は人財を育てることだと思いました。社員がいつでも夢・ビジョン・使命感を持って技術と併せて人格を磨いていくことです。仕事を通して自己成長していくこと、それがまず私のやるべきことです。」
　社員と価値を共有できる環境は奴寿司を家業から企業へと組織化し、変化させていった。 

</font><br/><br/><font size="3">■壁一面に描かれたなりたいビジョン
</font><br/><font size="2">

「すし華亭」の店名の由来は、にぎやかな雰囲気を想定して名付けたそうだ。そこにあるのは「鮮やかな人」が集まるイメージ。お客様の要望により、平成１６年には宇都宮駅東エリアに「すし華亭簗瀬店」をオープンした。平成18年に「奴寿司華月」をオープン。品質の鮮度はもちろん、多彩なメニューに日本料理と江戸前寿司を一体化させ、基準の高いサービスとおもてなし重視の新スタイルを奴寿司の象徴である店にしていくことを目指している。
「ただ単に店舗の拡張をしているのではなく、地域に根付いて、必要とされる店でありたい。宇都宮の食文化のレベルアップに少しでも貢献できればと思います。」
　そんな姿勢は、現在でも社長自らカウンターで寿司を握る姿から感じられる。経営陣となった今も、現場を退くことはない。カウンターで腕をふるい、まさに寿司道を生きる職人としての顔を持つ。
「華月には和食もできる店長と料理長がいますので、寿司専門の私とのコラボレーションが可能なんです。季節を考えたもてなしを常に心がけているんですよ。例えば梅雨時期なら雨だれや蛙なんかをモチーフに素材で表現します。宇都宮の食文化も上げていかないと・・・。上にはもっと上がありますからね。」

　取材が終了した後に、たまたまスタッフさんの控え室を見せてもらった。そこには壁一面、「自分がなりたいビジョン」の絵が所狭しと飾られていた。すし華亭の上りを立てて荒波を越えていく舟の姿や、カウンターで鮮やかに寿司を握る様子など、各スタッフが思い描くビジョンが力強く、鮮やかに描かれていた。
「自己実現していくために、学び、成長する必要があります。経営は先代の教えを守り、寿司の古い伝統文化のよさを守りつつ、時代の流れの空気を感じて、新風を巻き起こしていく。新文化創造に会社一丸となって取り組んでいきたいんです。」

　社員全員が常に大切に持ち歩く冊子がある。「商い」に対する奴寿司の根源となる内容は、こんな時代だからこそやるべきことが詰まっている。常に学ぼうとする姿勢を忘れず、愚直に商売をする教えは、父である藤咲忠治氏のときから変わらない。冊子の末尾には、「大家族主義」ということばが１ページに渡り記載されている。社員すべて、またその社員の家族もすべて奴寿司という家に集う家族であり、物心共に豊かになっていこうという考え方だ。
　寿司を通して、地域社会に貢献していくこと。大切なのは見えない根っこだと藤咲さんは言う。根は求めれば求めるほど深く、広く、とどまることなく伸びていく可能性がある。根に応じて幹や枝もしっかりと太く強くなる。結果、想いの花・実をつける。今ある現実はすべて自分が蒔いた種だとしっかりと肝に銘じている。そんな経営者の姿勢をとことん見せてもらった。]]>
      
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   <title>Vol.96　有限会社高林堂　取締役店主　和氣　幸雄さん</title>
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   <published>2009-07-01T04:36:26Z</published>
   <updated>2009-08-19T02:56:53Z</updated>
   
   <summary>菓子屋に生まれた宿命、菓子屋が果たす使命。 店主が守り、受け継いできた熱き職人魂...</summary>
   <author>
      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">菓子屋に生まれた宿命、菓子屋が果たす使命。
店主が守り、受け継いできた熱き職人魂が、
起死回生のヒット商品「かりまん」を生んだ。
<img alt="korindo.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/korindo.jpg" width="200" height="300" />

</font><br/><br/><font size="3">■父は、頑固一徹の菓子職人
菓子作りよりも、人作りが息子の最初の難題だった
</font><br/><font size="2">


「かりまん」というお饅頭をご存じだろうか。そのお菓子は、毎日限定3000個だけ製造。夕方になる以前におよそ売り切れてしまう。しっとりとしたあんを包む厚みのある生地は、かりんとうのようにカリカリとした食感で、美味しさを倍増させる。
　この「かりまん」を名物にしたのは、創業120年を迎える、宇都宮の老舗の菓子庵「高林堂」。昭和58年、病で他界した父の跡を引き継いだのが、和氣社長である。
「私の父は、仕事に対して非常に手厳しい人で、菓子作りに関して頑固一徹な職人でした。高校生の時、部活で映画部を選んだらえらく叱られましてね。毎週末、家の手伝いをしていました。お菓子を配達しているところを同級生なんかに見られるのが嫌でしたね（笑）。」
　神経質で持病も持っていた父。昔ながらの徒弟制度ということもあり、若者が何人も修行で来ていたが、厳しい職場ゆえ一人辞め、二人辞め、誰もいなくなってしまった。
「私はその時、ちょうど名古屋の方でセールスの仕事に就いていたんですが、呼び戻されました。売上げ的には、今の20分の１くらいしかなかったと思います。社員も誰もいなくなってどうしよう…とどこから手を付けていいのやら分かりませんでした。」
　その後15年間くらいは苦労の連続。客足も全く入らなくなっていた。
「自責の念にかられましたね。そこから少しずつ、実家が菓子屋だという息子さん達が修行に来るようになり、人を雇い始めました。徐々に人の質も高まってきたように思います。」
「お菓子を作るよりも、まずは人作り、と私は考えています。その頃は中学を卒業してすぐに、菓子作りの世界に入るのが一般的でしたから、まだまだ『働く』という意識の薄い少年達をいかに教育をしていくか…今だから言えるけれど冗談でなくて、若い社員に工場に火を付けられたこともあったんですよ。幸い消し止められはしましたが、教育にはとにかく、頭を悩ませました。」

</font><br/><br/><font size="3">■かりまん誕生</font><br/><font size="2">
平成19年に海道店がオープン。
「1店舗で年間1億の売上げを…とスタートさせました。オープン3日間は売上げも良かった。しかし5月の節句が終わる頃になると、売上げは急降下しまして、眠れない夜が続きました。まあ、社長がそんな弱気では駄目なんで悩みましたけど、色々と皆さんの意見を聞いてみたんです。何が駄目なのか、何が問題なのか…。」
　浮上してきた回答は、まず敷居の高さ。高級店という印象がぬぐえず、頻繁に足を運びにくいとの意見が出た。
「そこからは、いかに皆さんに愛される手頃なお菓子を生み出せばいいか…と必死で考えました。そこで出来たのが『かりまん』です。福島に『かりんとうまんじゅう』というのがあるんですが、それを参考にさせてもらったんです。開発の中心は私の息子が担当しました。」
　1日限定3000個。どんなに要望があっても、これ以上は作らない。かりまんは、その日のうちに食べてもらうことが重要だからだ。日が経つにつれ、一番の売りである「カリカリ感」が失われてしまう。
「小さいわりにひとつ100円もするし、しかも饅頭なのにカリカリしている。消費者のニーズに合っていないなど散々言われましたが、私も息子も、これは必ずヒットする！という確信に似た自信の中で、開発を進めました。」
　予想を超え、かりまんは空前の大ヒット。宇都宮の銘菓として、高林堂の名をより一層認知させる大きなきっかけともなった。
「土日には、海道店において実演販売も行っています。とにかくやれることは何でもやって、このかりまんには賭けていました。」

</font><br/><br/><font size="3">■社会から評価され、
認知され、必要とされる菓子屋へ</font><br/><font size="2">

和氣さんには、40代より始めた遅咲きの趣味がある。体力作りの一貫として始めたアユ釣り・海釣り・ルアーだ。
「これまでは余暇やレジャーなんてものはなく、とにかく突っ走って来ました。40過ぎて、また自分の息子が菓子作りに励むようになってようやく、自分の時間を持てるようになったと言えるかもしれません。幼い頃から常に家業を見て育ち、いそしんできましたから、『遊ぶ』という感覚はあまり持ち合わせていませんでした。」
　亡き父からの教えの一つに、「質素倹約」というのがある。
「うちのようなお店は、正に庶民の皆さんの懐からお金を頂いている。だから絶対に、分不相応な身なりや遊びはするな、というのが父の教えでした。菓子屋だというのに、違和感を感じさせるようなものを身に付けるな、と言われてきました。」
「社会に必要とされる企業になれというのも、教えの一つでした。必要だと言われる人や企業しか生き残れない。私も今の立場になってみて、本当にそう思いますね。やっぱり人間にとって、『あなたが必要だ』と言われることが一番の幸福と言えるでしょう。」
　菓子屋の朝は早い。毎日早朝4時、5時には起床し、工場に入る。奥様においては、社員の朝ご飯も作るそうだ。今も社長自ら、毎日500個〜600個の手作り菓子を作るという。そして、菓子作りの講師として、各セミナーや教室に招かれる場合も多い。
「今年で私も還暦を迎えます。こんな形ででも、社会に何らか貢献できたらいいなと考えているんですよね。」
　和氣さんにとって、菓子屋とはという質問をしてみた。
「労働対価として楽な商売ではないです。でも、能力を活かすステージとしては、自分には合っていた。業界で40年。お陰様でか、お菓子をセールスしたことは一度もありません。有り難いことに、大手のデパートさんからオファーをいただくまでになりました。そんな社会的な評価を受けていることが今は嬉しいし、幸せだと心底感じています。」
　商店の価値は、消費者が決めると、和氣さんは語る。
「今日作った物は、今日売る。だから朝早く起きて働く。それが我々の宿命だと思っています。能力の高い人間ではないから、とにかく出来ることをやっていかないと叶わないからなんです。襟を正して、どう生きてきたのかが一番大事。能力の差は努力でいくらでも埋められます。愚かで悲しいことは、自分の社会的能力が分からないことではないでしょうか。」
　取材場所に、小型のワゴンで自ら運転して来られた和氣社長。おそらくその車は配達にも使用されるのだろう。社長の車というよりは、小回りの利く利便性の良いものだ。
「車にもあまり執着はないんです。一番印象的だった車の思い出は、40年ほど前に、高林堂で初めて軽自動車を購入し、それで配達に出かけた時のことですね。軽のバンに乗れることが嬉しくてね。うちもこの車に乗せられるだけのものを運べるお店になったんだなあという実感が、ハンドルを握る手にもふつふつと湧いてきて…嬉しかったですねえ。」
　取材中にも何人ものお客さんが、かりまんを求めに来店される。売り切れとなっても、客足が途切れることはない。「心を満腹にするお菓子作り」という、高林堂が目指していた在り方は今実現し、菓子作りに賭ける精神と共に、世代を超えて脈々と受け継がれる。]]>
      
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   <title>Vol.95　リサイクルブティックくれそん　代表取締役社長　新井　祐さん</title>
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   <published>2009-05-29T08:18:35Z</published>
   <updated>2009-05-29T13:54:29Z</updated>
   
   <summary>リサイクル文化の発展と共に、事業も拡大。 「人」と「モノ」を繋ぐショップ展開は ...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
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   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">リサイクル文化の発展と共に、事業も拡大。
「人」と「モノ」を繋ぐショップ展開は
社会貢献という次のステージに進化した。
<img alt="kureson.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/kureson.jpg" width="200" height="300" />

</font><br/><br/><font size="3">■商売をしながら思い出を語る
トルコのバザー
</font><br/><font size="2">


20代の頃、海外旅行で訪れた数カ国で目の当たりにしたのは、市民の手で作り上げられた大規模なバザーや市場の文化だった。トルコ、中国、エジプト…いずれも、生活用品をリサイクルする精神がしっかりと根を
張っていた。
「当時の日本はバブル崩壊で大量消費社会にも陰りが出始め、物を大切にしようという風潮が芽生えてきている時でした。トルコで出会ったバザーのおばあちゃんなんかが、商売しながらも愛用品をエピソードと共に、楽しみながら売る姿を見て感慨深いものがありましたね。」
　リサイクルブティックくれそんの代表取締役、新井社長。現在の仕事に携わったスタートは25歳の時。
「元々母が趣味から始めた事業でした。私は大学で経済を専攻し、数年飲食関係の仕事もしていたんですけど、母の要望もあって始めました。面白そうだなという、最初はそんなスタートでした。」
　その後事業は順調に発展を遂げ、1年ごとに1店舗ずつ開店、現在に至る。
「昔は、リサイクル店というとどちらかというと表に出ない商売で、立地も裏路地が中心でした。しかしリサイクルが市民権を得るようになって、流れが変わったんです。弊社店舗も、最近移転した陽南通り店もそうですが、全店舗表通りに面した立地に変わりました。」

</font><br/><br/><font size="3">■新井社長が考える
リサイクルショップとは</font><br/><font size="2">
「例えば子育てを始められて、毎日忙しく、しばらくおしゃれとは離れた生活を送っておられたお母さんが来店されることがあります。子供の保護者会などに着ていく洋服を何にするか…いつもはダークな色合いの服を選んでおられたその方に、当店のスタッフが似合う色をチョイスして、普段は着ない色のスーツで出かけられた後、周りに大好評だったと嬉しそうにご報告頂きました。」
「毎日来てくださる方もいらっしゃるんです。そんな方が突然来られなくなると、心配になります。以前、毎日来店くださっていたあるご婦人が、3ヶ月間いらっしゃらない時がありました。後になって分かったことですが、入院をされていたとのこと。退院された後はすぐにご来店頂き、お店に来るのを楽しみにしていた、と涙ながらにお話頂いたこともありました。」
　そんな新井さんが育った家庭は、代々商売人の家系だった。
「母のやり方は現場主義。時に意見が食い違うこともあります（笑）。僕は経営者としての立場で長期的プランの中で話を進める、見極めることが求められますが、母は自分の勘を何よりも大切にしている。しかも、商売においては天才的とも言える嗅覚を持っていると、息子ながらに思うことがあります。本音で、細心の接客をしている、そんな姿を幼い頃から見てきたので、尊敬している部分ですね。」
　
　リサイクル店というと、比較的安価で、色んなおしゃれを楽しめるという利点もある。それは宝探しをしているような感覚に近いのかもしれない。
　新井さんが特に注意しているのは、一人一人のお客様に対応できるよう、地域密着型の運営をすること。毎日来店してくださる方が多いため、商品も毎日入れ替える。
「ただ、何かトレンド感がないと駄目なんですよね。良質のブランドでも、デザインが古いと売れなかったり。まず第一にデザイン、次に素材、それからメーカー（ブランド）。いずれかの要素が重なると売れるんです。」
　　店内には新品同様の商品が数多く整列され、リサイクルというよりは、店舗名の通り、正にブティックの様相。陳列も見やすく、季節感を出したレイアウトで工夫されている。

　リサイクル品に関しては、量り売りでの販売も増えているが、くれそんの理念は一品一品を大切に扱うことだ。
「扱うものは洋服やバッグなど、装うものがほとんどですが、そういうものって思い入れや歴史が、感慨深く詰まっているものなんです。その方のアイデンティティをそのまま表すようなもの。だから取扱には細心の注意をして、配慮しています。」
　商品を大切にする上で、働くスタッフに求めているのはハートの部分が締める割合が多い。店内のレイアウトや配置に関しては、外部のものを参考にするのではなく、従業員やスタッフの考えを全面に取り入れている。常に逆の立場で考えてみることが大切、マニュアルがないのがマニュアルだそうだ。
「例えば高齢のお客様が来て、イスを出せるかどうか。マニュアル化が出来るものではない部分まで、気遣いできるかというのが一番難しいし、人間性が表れるものだと思います。」

</font><br/><br/><font size="3">■手段と目的の一致
そこには社会貢献という
新たなテーマが加わった</font><br/><font size="2">


現在、新井さんが取り組んでいることは、米国宝石学会鑑定士（GIA・GG）の資格の取得だ。リサイクルショップでこの資格を持っているところはほとんどない。むしろ、日本国内でも何千人単位でしか認定されていない、難易度の高いものだ。宝石のきちんとした知識と良さをお客様にお伝えするために、挑戦し続けている。
「今、第二次ともいえるリサイクルブームが来ています。ただ、ショップの中にはあまり信頼度の高くないところや、正当なモノの価値基準があいまいなところもあります。弊社は常に、正当評価の買取をし、また処分品が並ぶといったイメージを一掃させた、美しい店内ディスプレイには努力を惜しまず日夜取り組んでいます。」
　最後に、経営者としてのご自身についてお話を伺った。
「元々楽天的な性格なので、恐いもの知らずでこの世界に飛び込んでいったと思います。私の考えとしては、いかに自分より有能な人に来てもらうか、というのが重要だと考えています。その人が持っている才能を十分発揮できるように、縁の下の力持ち的な経営人でありたいと願っているんです。」
「そして何のためにお店を運営しているのか…最終目的としては、社会貢献をしたいという思いが根底にあります。」
新井さんは宇都宮青年会議所に所属し、宇都宮市内で毎年開かれる宮まつりなどのボランティア活動を行っている。中でも任務は「環境委員会」という部署だそうだ。社会貢献も踏まえた、企業単位での貢献という考え方がベースにある。
　新井さんが心訓にしているものの一つに、かのディズニーの名言がある。

私は、事業のために
映画を作っているのではなく
映画を作るために
事業をしている 

「一つ高い視点で物事を見る、仕事もそう。そうすれば、苦しいことが苦痛ではないですし、窮地になっても考え方一つで楽しくもなるんですよね。手段と目的が逆になっては駄目で、そこには一貫性が必要です。仕事の喜びはそこにあるんじゃないかな、と思っています。」]]>
      
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   <title>Vol.94　株式会社開倫塾　代表取締役社長　林　明夫さん</title>
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   <published>2009-05-07T03:57:16Z</published>
   <updated>2009-05-27T08:47:05Z</updated>
   
   <summary>教育は社会を照らし、人を導く。 倫理を重んじ、生涯の「学び」を自ら体現。 「教え...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">教育は社会を照らし、人を導く。
倫理を重んじ、生涯の「学び」を自ら体現。
「教え方日本一」の学習塾を目標にする。
<img alt="kairin.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/kairin.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">■目指すは
「教え方日本一、塾生数北関東一」
</font><br/><font size="2">


スタートは、今から30年ほど前、1979年創設。足利市での小さな長屋スタイルの教室が始まりだった。現在、開倫塾は栃木・群馬・茨城にしっかりと根を下ろし、塾生徒数は約6600名にも及ぶ、北関東屈指の塾へと成長を遂げた。現在でも、受験指導の蓄積を基に「教え方日本一、塾生数北関東一」を行動目標に、教育サービスの更なる向上を図っている。
　創立者で代表取締役社長である林さん。穏和で温かいお人柄がが第一の印象。
「初期の頃は私一人でのスタートでした。教師は私一人。でも、地元足利で教育の仕事を専門に行いたい…という願いは叶ったんでとにかく一所懸命でした。設備投資には一番苦労をしましたけれど、自分の信じる道を突っ走ってきたという感じですね。」
　「塾というのは、基本ベースで
ある『学校の補強をする場』だと思っているんです。勉強面ではもちろん、例えば行動指針、生き方なども教育するべきだというのが、私の考え方です。」
　開倫塾のユニークな教育方針の中に、教師が毎授業の度に、生き方や目標や生徒にとって何らかプラスになるスピーチを行うという時間がある。机上の勉強だけで無く、「精神の勉強」という意味でも、塾は学校を補うべきという発想だ。
「先生達の教育においても、最初は授業方針をざっと書いて提出してもらうんです。先生を育てることも重要なんです。」
　今の子供たちと、ひと昔前の子供たち、また両親にいたっても違いがあるのだろうか、興味津々でお話を伺うと、意外な答えが返ってきた。
「いや、ほとんど変わらないと思いますよ。むしろ良くなっている、教えやすくなっているとさえ思います。まず栄養状況がいい。ケアが行き届いているから風邪もひかないし、皆さん丈夫な気がします。それから、少子化の影響もあるかもしれませんが、個々が大切に育まれているからか、きちんとしてますよね。親御さんの教育も行き届いているんでしょう。」
「個人ベースが高いお子さんが多いから、自然と学力も高かったりするわけです。ひと昔前はは塾通いに関して、一方的な見方もありましたが、今ではほとんどのお子さんが有り難いことに、通塾されている時代です。その分、我々教師は自分を磨かないといけません。学力ベースもしっかりしたお子さんが増えたから、きちんとした方向に持って行けば伸びる可能性を多分に秘めている。先生の力量が問われています。」

</font><br/><br/><font size="3">■「定着の3大練習」から
「学び方を身に付ける」教育へ</font><br/><font size="2">
驚いたのは林さんの経歴と活動だ。開倫塾の塾長として、関東を中心に多忙を極める毎日のほか、様々な文化活動に参加。宇都宮大学大学院での客員教授、栃木県社会教育委員、マニー株式会社の社外取締役、またあらゆる新聞・ラジオなどメディアでの定期活動、ユネスコ協会、経済同友会での活動など、目を見張るほどのご活躍ぶりだ。
　多忙を極めているはずだが、終始穏やかで、ゆったりとした面持ちの林さん。塾で教鞭を執っていた傍ら、自らの学びを怠ることのなかった生き方が垣間見える。余暇の過ごし方についてもお聞きすると、趣味は「社外活動」であるそうだ。そして、毎日一冊を読破するほどの勤勉な読書家でもある。
「先にも述べたように、教師の力量というものを伸ばすためにも、大人になっても、常に学ぶ姿勢が大切です。まさに『一生勉強、一生青春』。これは、同郷であり足利市在住の相田みつを先生の言葉で、私自身もモットーとしています。」

　学生時代での成績アップ、学力アップの秘訣についてもお話を伺った。
「学校の勉強、定期テスト対策には法則があります。まずは理解した内容を定着させることにつきます。開倫塾ではこれを、『定着の3大練習』として、『音読・書き取り・計算問題』を挙げています。江戸の頃から続く、学問の基本と言えます。テスト対策などはこれで十分。そして大人に成長していく過程で身に付けて欲しいのは、『考える力』です。」
　テストでの数値が表す成績ではくくれない、生きていく上での「学力」は、これら『定着の3大練習』を更に応用・発展させていくこと。
「私が口をすっぱくして説いているのは、まず新聞を読むことです。しかも隅から隅まで。小学生なら20分、中学生なら40分、高校生なら60分と、課題に取り組んで考えて欲しいんです。
　現在を知る力、文章を読み解く力、批判精神…新聞にはあらゆる、知力を付ける要素が含まれていると思います。やはり、学力が高い人というのは、将来的にも何をさせても応用が利く。理由は、『学び方を身に付けているから』なんです。それは、定期テストで100点を取ることを通しても身に付きます。そして更に、大量の文章に触れていくことで自分により磨きを掛けて欲しいですね。」

</font><br/><br/><font size="3">■倫理を重んじ、
「学ぶ」過程に終わり無し</font><br/><font size="2">


林さんの夢、今後の展望についても伺った。
「まずは開倫塾を北関東圏でトップ規模の塾にすること。東京にも範囲を伸ばしていきたいと考えています。それから、我々教師の向上という意味でも、『社内大学院制度』を設けて、レベルの高い人材へと社員が育っていくような組織作りをして行きたいと考えているんです。」

　林さんが一番衝撃を受けたのは、大学のゼミの一環として刑務所や少年院などの矯正施設を訪れた時。その視察時に、刑務所長や刑務官の先生の、
「ちゃんと勉強さえしていれば、ここに来なくてもいい人がほとんどなのに」という一言。
「人のため、社会のためを思うと、やっぱり教育というのは非常に重要なんだということを思い知ったんです。教育の道を志そうとしたきっかけはそんなところにあったのかもしれません。」
　開倫塾の名前の由来は、昔から倫理・道徳・哲学などの学問に興味があり、好きだったという理由から来ている。まっすぐな姿勢は、教育の道を志した30年前から一切変わっていない。年を追うごとに、その情熱は活気付き、ますます円熟味を増している。]]>
      
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   <title>Vol.93　有限会社オノカンパニー　代表取締役社長　小野真一さん</title>
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   <published>2009-04-07T23:34:51Z</published>
   <updated>2009-05-27T08:47:04Z</updated>
   
   <summary>イメージするのは、高い目標をクリアし、 皆で抱き合って喜ぶ姿。心にはいつでも、 ...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">イメージするのは、高い目標をクリアし、
皆で抱き合って喜ぶ姿。心にはいつでも、
成功の構図を描く絵筆を携えている。
<img alt="ONO.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/ONO.jpg" width="200" height="300" />


</font><br/><br/><font size="3">■次の一手を打つために
不必要な執着は捨てる</font><br/><font size="2">


宇都宮を中心に、数々の店舗運営を手掛けている有限会社オノカンパニー代表、小野社長。最初のお店は24歳の頃の、レストランプチプレリー。その後モアイ2店舗、割烹料理雪月花、パンドラの箱3店舗、アンコ
ールワット、グリーンイースター、ロタ、プチプレリエスト、牛楽2店舗、パブでルトゥー姉妹、ルルド2店舗、マナティー（1店は東京亀戸にて）。その他、インターネット通販も展開している。
「これまでにオープンさせてきた店舗は17店舗、現在直営で運営しているのは7店舗になります。10店舗は閉めたり、独立させたりしました。」

「例え失敗をしたとしても、あまり恐れません。それよりも、もう二度とこのチャンスは来ないかもしれないのに、それを逃すことの方が恐いと思っています。やってだめだったらやめれば
いい。いくつかの撤退も経験してきたから言えるんですけど、その見極めっていうのも重要なんです。屋台骨をつぶさないように、次の一手を打つため、不必要な執着は捨てる。かの織田信長も負け戦になると判断したら、すぐさま撤退させたといいます…だけど男だから、次にまた、つい挑戦したくなるんですよね。」

</font><br/><br/><font size="3">■適材適所で、人は素晴らしく
才能を発揮する</font><br/><font size="2">
「ビジネスを始めた理由は単純ですが、少し料理が出来たから。すごい野望や志は何もありませんでした。」
　「ただ自分はラッキーだった」と小野さんは語る。金銭も信用もなく、アイディアを練り、お客様に感動やサプライズを伝えられるお店にしたかったという思いだけがパワーの源だった。
「性格上、自分を追い込まないと自堕落な人生になり、何もやらないでそのまま何気なく過ごしてしまうと思うんです。だからこそギリギリのところに追い込んで、そうでないと生活ができないようにして、これを成功させないと潰れてしまうところまで、自分を追い込むんです。」
成功して当たり前、失敗したら明日がない…そんな危機感を味わいながら、いつもすれすれで生活をしてきた。
「今は偶然うまくいっても、常に危機感を感じています。いつ何時、どこで足元をすくわれるか分からない時代でもあります。でもそれで守りに入ったり、何もしないというわけではないんです。」
　そんな小野さんも、一番苦労して悩みに悩んだのは「人材」についての問題だ。
「昔は特にね、人を遣うということに見識が浅かったりもしたんで感情的になってしまったり、思いやりがなかったと思います。スタッフ全員に辞められた経験もあるし…かなりショックな出来事でしたよね。」
「よく、従業員から『それは無理』『それは難しい』という言葉が出てくることがあるんです。そうすると、やる前から出来ない理由を並べてくる。チャレンジもしない、失敗したわけでもないのに、それは逃げているだけだと私は思っています。」
　そんな小野さんの人材教育のテーマは、
「適材適所で、人は素晴らしく才能を発揮する」
ということだ。
　常に諦めないで、いつでも思いと念を込めていれば、いつか願いは叶う。
　優秀な人材が欲しい…どの経営者も同じく悩むことだが、無い物ねだりをしたとしても仕方がない。会社が優秀なら、黙っていても優秀な人材が集まってくるだろうという考えから、今後
は会社に魅力を出すために上場を考えているという。
「机上の空論ではなく、本気で必ずやり遂げよう、と取り組んでいる課題がこれです。ただがむしゃらに頑張るのではなく、きちんとした目標数値を設定して努力の配分ペースをつかみ、オーバーペースやスローペースにならないように、追い込みもかけられるようにコントロールする。そんな毎月のゴール設
計書を作成することにしています。」

</font><br/><br/><font size="3">■絶対成功の哲学</font><br/><font size="2">


「小野さんがビジネスにおいて、一番大切にしているのは「成功のイメージ」。
「絶対に成功する、と念じるだけでは甘い。イメージするのはその先です。成功してみんなで達成感を味わい抱き合いながら喜んでいるイメージ…これですね。」　
　必ずできるというイメージを、スタッフ全員が共有すること。真剣にやること、それでダメであっても諦めないでその失敗を経験にすること。同じ失敗、同じ間違いを二度と繰り返さないこと。そこから学んだノウハウが蓄積して、企業の財産となり、成長の糧となる。
「目標が高いほど失敗のリスクも高くなりますが、困難な分だけ素晴らしい達成感を味わうこともできます。トップはこの仕組みを作り上げなければなりません。努力をして、成功させて、やり遂げさせることを一緒にやって、教え込んでいくんです。」

　最後に、これからの展望について伺った。
「昨今の世界的な金融危機が騒がれている中で、さほど個人としては、危機感を感じていなかったかもしれないですが、マスコミがあれだけ騒ぎますから、そうなのかな？くらいに思い始め、財布のヒモも固くなる。ただ、我々商売人にとっては、今が一番商売の拡大がしやすい時期なんです。居抜き店舗は多いし、銀行の金利は安い、人材は集めやすい。居抜き店舗を使えば損益分岐点の低い店舗が出来、低く抑えることができれば不景気にも強い。もし拡大を考えている経営者からすれば、今がチャンスだとさえ思います。この不況を追い風にし、そのために人への投資をしていく。幸いなことに、将来性のある良い方が溢れている状況だと思うんです。これからも、他が真似できないような差別化のある店舗展開をしていこうと思いますね。」

　取材時ご自宅で、何点もの自作の絵画を見せてもらった。どれもプロ級の腕前。
「元々絵を描くことは趣味で、ずっと続けているんですよ。まあ、年に数枚といったところですが、気に入った風景なんかを数枚並行して描いているんです。」
　作品はどれも、「静」を感じさせる雰囲気の作風。熱い思いを胸に、企業の経営者としてトップを切る小野さんの「静」の世界。何点かの絵を描いては時に筆を止め、思慮した後に続きを描く。この先も、オノカンパニー運営の店舗は、「夢を実現する」社員の強いイメージをベースに成長を続ける。]]>
      
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   <title>Vol.92　ひまわり歯科医院　院長　原田　博之さん</title>
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   <published>2009-02-26T05:32:38Z</published>
   <updated>2009-05-27T08:47:04Z</updated>
   
   <summary>痛みは少なく、お待たせしない。優しい設備の歯科医院。 医療従事者としての熱い情熱...</summary>
   <author>
      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
   </author>
   
   
   <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/">
      <![CDATA[<font size="3">痛みは少なく、お待たせしない。優しい設備の歯科医院。
医療従事者としての熱い情熱とサービス精神は、
新しい歯科医療の可能性を示している。
<img alt="himawari.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/himawari.jpg" width="200" height="300" />

</font><br/><br/><font size="3">■医療の道に進むことは
子供の頃からの夢だった</font><br/><font size="2">


医療の道を歩みたい…そう希望したのは小学生の頃。小学2年の頃の「ぼくがおとなになったら」という作文には、こう記されている。

ぼくはおとなになったら、
おいしゃさんになりたい。
ぼくがおいしゃさんになったら
びょういんを三つたてる。
人間と、どうぶつとこん虫のびょういんだ。（以下　省略）

そしてぼくのびょういんはお正月もやっている。
だけど木よう日は一日お休み。
その日、ぼくはどうぶつやこん虫とあそんだりけんきゅうをする。

「不思議と子供の頃から医療に対するスタンスは変わってないんですよ。」
　宇都宮市中岡本町にあるひまわり歯科医院、原田院長。気さくなお人柄が印象的だ。
「近年、細分化された医療の中でも、様々な年齢層の患者様が受診される身近な科であり、毎日の食を支え、また間接的ではあるけれども人間の生死に関与する歯学部を選択しました。」
　平成6年に東京歯科大学を卒業後、慶應大学付属病院に勤務、そして長野の病院へ。東京から北上し、最終的には北海道まで行き、いずれは「僻地（へきち）医療」を志していた。
「地域医療には昔から興味がありました。なぜかというと元々旅行が好きで、色んな過疎の村なんかに行くと、やはりそこは高齢化社会で医療が十分でない現状を、沢山見てきたからなんです。以前の第一希望は奄美大島で、島と島の間を舟で回るような医療に従事することでした。」
　宇都宮へ転任したのは、今から12年前。宇都宮市内の病院歯科での勤務がスタートした。
「ある程度立場のある職務に就かせていただいて、尚かつ同じ土地に5年間住んでいると、もう愛着が湧いていましたね。」
　奄美大島行きの考えを大きく転換し、初の開業に踏み切ったのは7年前。往診が中心で、週のうち4日間が往診。診療が2日というスタイルでのスタート。最初は10坪のテナントに診療台が1台という、小さな開業だった。
「無歯科医の地域で、往診診療をやりたい…という昔からの希望がありましたし、寝たきりの方などは、極端に言えば隣りに歯科医院があっても、治療を受けられない場合もある…そのあたりを考慮して、往診中心の運営をやりたいと思いました。ポータブルユニットやポータブルレントゲンなども揃えてあり、宇都宮ではかなりしっかりした装備を持っていると思います。」
　きめ細かい歯科医療を実現。そのうち外来患者さんが増加し、5年前、現在の場所での再開業となった。

</font><br/><br/><font size="3">■唯一無二の天職、歯科医師
</font><br/><font size="2">
「最初に勤務した大学病院に、ある先輩がいまして、その方も精力的に医療に従事するスタイルの方だったんですが、『病気に、時間も曜日もない』と教えられたことが今でも印象に残っています。私も日曜や夜も、医療に従事する信念でやってきました。」
「以前は日曜診療も行っていました。今は規模に対してのスタッフの確保が難しく、日曜はやっていませんが、休みも夜も関係なく、歯科医の仕事を精力的にやっていきたいんです。」
　原田院長にとって、歯科医とは唯一無二の、天職であるという。より細分化されてきている医科において、歯科医療における「一口腔単位」は、一通り一人の医者でまかなえる身近な医療。医院の近隣の方が患者として来院してくれる良さ、また手先で治療を施すというプロセスも、自分に合っていると原田さんは語る。
「歯科医は命に直接関わるような仕事ではないですが、以前、自宅療養をしていた末期ガンの患者さんの往診治療をしていたことがありました。亡くなる直前に喉が渇いたと言って、ご自身の歯で、しっかりと氷のかけらを美味しそうに食べていた…と亡くなった後にご家族から感謝された経緯などがあって、食べることは生きることの根幹であり、間接的に命に関わる重要な事だと再認識しました。」

</font><br/><br/><font size="3">■歯科医院を拠点に、地域を活性化する</font><br/><font size="2">
ひまわり歯科医院に一歩入ると、受付スタッフの爽やかな笑顔に出迎えられる。歯科医療に誇りを持ち、サービス精神旺盛な原田院長の方針の元、医院内は常にたくさんの改良を重ねている。
「患者さんの立場に立ってされたくないことはしない、単純だけど、これが一番なんです。とにかく、痛みを少なくすること。これが永遠のテーマです。他の科なら【自然治癒】の症例はあるけど、歯科では残念ながらありません。歯医者って怖い、痛いイメージが特に強いと思うんですよね。少しでも痛みや恐怖を除くために、設備などのハード面もそうですが、より丁寧で納得できる説明など、ソフト面にも力を注いでいます。」
　洗面台には、治療前にブラッシングが出来る歯ブラシ。また、患者さんを「待たせない」システムも徹底している。お待たせしても10分、もし20分お待たせした時はカルテに記録し、次に活かす材料とする。
「私は両親が普通のサラリーマンという家庭で、金銭的にも特別恵まれているわけでもありませんでした。そんな感覚で育ってきたから、良い意味で医者や医療が特別、というような視点は持ち合わせてないですね。だから、患者さんに負担になるような金額設定や、治療をお勧めするようなことはありません。」
　原田さんに、ここ最近一番嬉しかったことは…という質問をしてみた。
「歯科って、地域の0歳児から100歳くらいのお年寄りまでが来院してくれます。それが私にとっては一番の喜び。学べること、触れあえることがたくさんあります。一番嬉しかったことは、歯医者をすごく怖がって、治療することを拒否していた男の子がいたんですが、最後にその子が『大きくなったら将来は、歯医者さんになりたい』と言ってくれたことですかね（笑）。」
　原田院長には、まだまだやらなければいけないこと、やりたいことが無限にある。まずは予防歯科を地域に定着させること、そして治療中心の現在のスタイルを、予防歯科中心のスタイルにすること。
「歯を削る機械が一切無い、『ドリルフリーゾーン』を作りたいなと思っているんです。別棟で削る機械が無い診療室を作りたいですね。それと、昔やっていた往診も復活させたい。新しい試みとしては、託児スペースの更なる充実です。保育士さんもお陰様で確保できましたので、お子様をお持ちの多くの方に是非、活用していただきたいですね。
　また、バザー等のイベントを開催して、収益をユニセフや国境なき医師団への寄付を行い、小さいながら地域にとどまらず社会貢献をしていきたいと思っています。」
「大きな夢としては、内科や耳鼻科など他科とタイアップして、地域の医療機関をルートで繋ぐバスを運営することです。そして医療だけでなくスーパーやホームセンターなどもルートに組み込めば、高齢者の方などにもご活用いただけると思うんですよね。」
　託児スペースの充実、そして最近ホームページも新しく開設し、休日に無料歯科検診を実施するなど、今ひまわり歯科医院は正に新しい試みに精力的に挑戦している。]]>
      
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   <title>Vol.91　株式会社木の花ホーム　早乙女　正さん</title>
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   <published>2009-01-31T06:19:47Z</published>
   <updated>2009-05-27T08:47:04Z</updated>
   
   <summary>草野球から大リーグを目指す企業体質は 根っからの大工棟梁の気風を受け継いだ 「た...</summary>
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      <name>株式会社ビジュアル</name>
      
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      <![CDATA[<font size="3">草野球から大リーグを目指す企業体質は
根っからの大工棟梁の気風を受け継いだ
「ただ、まっすぐにつくる」ことだけを貫いて…
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</font><br/><br/><font size="3">■大工棟梁の家系。木材に囲まれ、育った少年時代</font><br/><font size="2">

栃木県上都賀郡西方町。のどかな風景が広がる中に、（株）木の花ホームはある。シンプルで高品格な建物は完成して間もない新社屋。中にお邪魔すると、木の薫りに出迎えられた。
　代表取締役の早乙女さんは、大工棟梁の家系に生まれた三代目。時代は昭和40年代の建築ブーム。3年先まで、カレンダーは仕事の予約でびっしり埋まっていた。
　「納得のできる家を造りたい」そんな職人気質で木の花ホームを立ち上げ、現在に至る。
　「良い家は良い大工で決まる」という方針には、一切妥協は許さない。元大工の厳しい眼にかなった良質の職人をスタッフに迎え、流通や宣伝、建材などの省けるコストはとことんまでカットするというビジネスモデルを実践。「安くて、いい家」の実現に成功した。その姿勢は瞬く間に評判となった。人口が7000人に満たない西方町での高い実績を実現。設立当初から着工数は右肩上がり。西方町で揺るぎない成功を収められたことは、地域密着型の証でもあり、木の花ホームにとっての大きな誇り、財産となった。そして県南から栃木全域へと施工実績を増やし、年間着工件数は県内でもトップクラスに位置する。
「物心ついたころから、玄関や至る所、家の中は木材だらけの環境で育ちました。もう自然と、家を造る仕事以外はない人生でしたね。職人も5〜6人、常に出入りしているような家で、幼い頃は遊びに行くよりも、現場に出向いていた記憶の方が鮮明に残っています。厳しい父親だったので、友達と遊ぶよりも、機械で穴を掘れなど、色々言われていました。」
　大学を卒業後、父親から「他人の飯を食え」との指示があり、別の棟梁の元で3年間厳しい修行に耐えた。
「社会に出る時、最初に出会う会社って重要だと思うんです。真っ白な土壌に直で影響を受けるわけですから、自分の仕事スタイルがそこである程度決まると思うんですよ。私は生まれた時は父、社会人一年生の時はそのおっかない棟梁だったので、今ではその経験が有り難いなと実感しています。だからこそ、やっぱり人間、素直さが一番大事だと思いますね。」
　仕事に厳しい棟梁に教えられたことは、大工仕事のシビアな世界。「自分の仕事は一生残る、上手くやっても下手にやっても残る」という一言が刻まれた。
</font><br/><br/><font size="3">■何百棟のうちの一棟ではない
それは正に一生涯の手仕事</font><br/><font size="2">
「会社設立は17年前のこと。
「25、26歳の頃っていうのは説得力のない時期で、仕事がなかった。ツーバイフォーやプレハブ建築も試してみたんですが、やはり造りがアバウトで、住み始めてから欠点が目に付くところが気になった。その点、在来木造住宅は欠点が少ない。在来の仕事が一番だと実感しました。」
「自分が親方の指揮を執っていた時は、抱える大工7人分の仕事を探すのが大変でした。仕事量を倍取ってこないと、3ヶ月で工期が終わってしまう…そんなプレッシャーとの戦いでしたね。」
大工の棟梁として先頭を切っていた早乙女さんには、忘れられない一つのエピソードがある。足利のメーカーの仕事で3棟並んだ物件があった。別の会社でそれぞれ受け持っていた時、早乙女さんが担当する家の家主である若夫婦が現場にやってきた。早乙女さんの手仕事を見ながら、二人は涙を流して立っていた。
「3棟並んだ別の会社の大工さんが、『隣の大工は、丁寧な仕事をしてるよ』と言ってくれたらしく、それが嬉しくてお二人は泣いておられました。私にとっては何百棟のうちの一つの仕事だけれど、この若夫婦にとっては一生のうちの一棟なんです。家を造るということは、一生涯の仕事をしているということですね。」
</font><br/><br/><font size="3">■テーマは「ただ、まっすぐにつくる」</font><br/><font size="2">
根っからの職人気質で、理想を曲げることなく貫いてきた早乙女社長。「より安くて、より良い家をより多くの方に提供したい」その姿勢は、仕事に対しても非常にシビアだ。
「建造物に対する高度基準、また営業に対してはシビアに時間管理もしています。ただ、時代に対しての先読みが間違ってはいないと思っています。最近ようやく、余分な脂肪が出て、筋肉体質の企業に昇華出来たかな、と思っているんですよ。」
元々会社経験もなく、大工の技術しかなかったが、2000年以降、100棟を超える実績を持つ会社は、全国でもそうはないと自負している。社長は自社のことを、「草野球から上がってきた会社」と形容する。
「つまりは、大リーグに上がろうとする意識のある社員しか残っていないと思っているんです。常に自分を磨いていかないと…」
　天才はいない、天才とは、努力することに長けている人のこと。そして、立ちはだかる壁というのは、全て無駄なものはないというのが持論だ。
「どんな困難も、神様が用意してくれるものだと私は思っています。それを素直に受け入れられる人は、必ずいい方向に進んでいきます。逃げていたらいつまでたっても同じ壁が来るし、最後にはその壁すらこなくなる。人生にとって『必然の壁』ですね。だからどんな困難も決して、環境のせいにしてはいけない。全ては自分の責任。覚悟を決めた人に、必ず運は巡ってくるものです。」
　大工としての厳しい世界の中で、早乙女さんの進むべき道は決まっていた。木の花ホームにはルールがある。それは企業のメインテーマともなっている、
「ただ、まっすぐにつくる」
という答えだ。決して妥協しない、めげない、信念を曲げない。ビジネスの世界で成功する人は、必ず自分の信念を貫き、自分ルールを頑なに守っている。どんなに遠い地域の現場でも、未だに仕事のスタートは朝8時から。大工時代から染みついたそんな自分ルールを、早乙女さんは未だに大切にしている。
　頂いた名刺の裏には、セピア色の二枚の写真が印刷されている。一つは、昔気質の大工棟梁だった父親と共に、施工中の家の前で職人達と並んでいる写真。もう一つは、会社を立ち上げた頃の大工7名の写真。その中央には「ただ、まっすぐにつくる」という一言が添えられている。
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   <title>Vol.90　サン.クリストフォロ オーナーシェフ　中村 健司さん</title>
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   <published>2009-01-06T08:06:46Z</published>
   <updated>2009-05-27T08:47:03Z</updated>
   
   <summary>人に感謝し、人の痛みの分かる商売人になれ 薫り高い味を生み出すシェフの元に人は集...</summary>
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      <![CDATA[<font size="3">人に感謝し、人の痛みの分かる商売人になれ
薫り高い味を生み出すシェフの元に人は集い、
誇りと味が、料理の深みを一層際立たせている
<img alt="0901job.jpg" src="http://www.visual.co.jp/blogs/Job/0901job.jpg" width="200" height="300" />
</font><br/><br/><font size="3">■石と木で創られた店内には、スタッフの笑顔と誇りがある</font><br/><font size="2">

サン・クリストフォロという言葉の意味は、イタリア語で「キリスト」を意味する。その名にふさわしく、店内は石と木で作り上げられた内装。暖かい冬の陽光が、さんさんと注ぐ。
　スタッフが気ぜわしく動き、ランチの準備に追われている。一人一人の顔に、笑顔と誇りがある。
　薪を燃やし、イタリアから取り寄せた石窯で焼くピザが大好評。地下のワインセラーにはイタリア産のワインが常時2000本並び、ここでしか味わえないこだわりのイタリアンが、毎日シェフの腕から生み出されている。オープンから6年目。今や宇都宮でも有名店になった、イタリアンレストラン、サン・クリストフォロのオーナーシェフ、中村さんにお話を伺った。
「とにかくまっすぐにやってきた、そんな5年間でした、そして5年経って見えてきたこともたくさんありましたね。」
　中村オーナーが食の世界に入ったのは19歳の頃。スタートは洋食屋だった。
「若かったから、全然仕事に本腰は入ってなかったと思います。遊びが中心の生活で、寝坊したりとか…。厳しい先輩に蹴飛ばされながら、でもこの仕事しかないと思っていたから、何とかやってこれましたね。」
　時には「自分は出来る」と天狗になってしまったこともあった。
　そして、本場のイタリアへ
「やっぱり、衝撃を受けましたね。本場の味は違うなと。言葉も何も通じなかったけど、体感できたことが血となり肉となりました。やっぱりいいと思える店はちゃんと評価されていることも肌で実感できて、すごく勉強になりました。」
　10年間下積みをし、独立を思い描くようになった。様々なレストランを経験して、自分を試してみたいという気持が固まってきた。
「取り立てて自慢するようなことは何もないのだけれど、唯一誇りに思っていることといえば、やはりスタッフかな。オープンの時からの仲間がほとんど。しかも、開店当初も声掛けだけで集まってくれたのが嬉しかった。10年以上付き合っているから、もう兄弟や家族のような感覚ですよ。」
　とにかくスタッフ、人とのつながりを一番大切にするのが、中村オーナーのモットーだ。一人一人と個別に、またはみんなで話をする時間を未だに設け、大切にしている。それは、仕事で取引をする業者に対しても同様。地元でお店をやる以上は、支えてくれている人への感謝を常に忘れない自分でありたい、という。
</font><br/><br/><font size="3">■6年目を迎え、教えられたこと</font><br/><font size="2">
「オープンからあっという間に6年経ちますが、未だに毎月不安だし、数年先も不安はあります。ただとにかくまっすぐにやれば必ず結果は付いてくるから…と、スタッフには話しています。」
　中村オーナーを現在支えるのは9名のスタッフ。基本的に接客指導はしない。頭ごなしの物の言い方はしない。自分が良いと思うことをやってもらって、少し違う時は軌道修正をする。人だから失敗するのは当たり前。ただ、失敗することを誤魔化す自分がいたら、きちんとそれを直視することを重要視している。スタッフ同士、仕事に関しては言いたいことを言い合える関係でいることが理想。
「僕の考え方がおかしければ言ってくれ、とスタッフには言ってますし、実際彼らに謝ったこともあります。ワンマンでは行きたくない。一人ではどうにもならないということを思い知ったので、とにかく人とのつながりは大切にしたいんですね。」
「怒る時はすごく怒ったり、時に無理して怒る時もあったりして、態度や顔に出てしまう未熟な僕なのに（笑）、スタッフはほとんど辞めずにずっと付いてきてくれる。それがホントに有り難いですよ。自分の誕生日の時はみんなで相談して、僕の好きなミニカーをプレゼントしてくれたり。本当に嬉しくて、大事にお店に飾ってあります。」
「飲食店には、独立は付きもの。今は家族のように時間を共有しているスタッフの中からも、もちろん近いうちに独立していく人間が出てきます。それは寂しいことだけど、5〜6年の月日、僕もお店も支えられたわけだから、全面的にバックアップしてやろうと思っています。」

　6年やってみて、考え方が大きく変わったことといえば、サービス業における重心の置き方。
「味ももちろん重要だけど、雰囲気と接客がウェイトとして半分以上を占めてるんだな…と感じています。最初とは考え方が変わりました。例えばうちの店長は、僕が知らない接客ノウハウを知っているんです。お店のオーナーとして、味のことはそこそこ分かるけど、僕は接客のことは全く知識がなかったから、お店をやりながらサービスの修行をしてみようと思って、そちらに重心を置くようになりました。」

</font><br/><br/><font size="3">■「人の温かさ」が感じられる味</font><br/><font size="2">
中村さんが尊敬する人について、お話を伺った。
「たくさんいますけど、頭が上がらないと思うのは両親ですかね。それから、文句一つ言わず子育てをしながら、お店の開店を支えてくれた妻にも感謝しています。」
　父親は会社を営む社長。店内の設計には、父親の全面的なバックアップがあった。
「実は数年前、駐車場でのクレームに頭を悩ませていた時期がありまして…そんな時、交通整理を買って出てくれたのが父だったんです。」
　暑い日も寒い日も、今でも交通整理をしてくれるのは中村さんの父親。やがてクレームは激減した。
　とにかく人、ありき。サン・クリストフォロの名前の由来は、実は昔、中村さんがイタリアで修行したお店から譲ってもらった名前だという。そしてお店の紋章も譲り受けた。
「ある日、名前分けしてもらったイタリア人のオーナーが、何と宇都宮の僕のお店にひょっこりやって来たんです。その時の感動は忘れられませんね。」

　ご両親、ご家族、スタッフ、そして来店されるお客様に支えられて、サン・クリストフォロはこの土地に根付いた。
「美味しい料理を食べにお越し頂くお客様、そこで働かせてもらってるスタッフ、全てが相互関係の元、お店は成り立ってるんだなと思います。5年目にして、みんなが向かう方向を統一しなければダメだということにも気がつきました。」
　サン・クリストフォロから提供される味は、単なる「美味しい」だけにとどまらず、そこに集うお客様、スタッフ、関わる人たち全てを温かく幸せにするようなパワーが感じられる。お母様の教えである、「感謝する気持ちと、人の痛みの分かる商売人になれ」という一言に忠実に、中村さんは人との絆を大切にしてきた。店内にある大きな木片に掘られた一つのオブジェ。そこにはサン・クリストフォロと大きく彫刻され、イタリアの地図が刻まれている。これはお父様から、息子である中村さんへの手作りのプレゼントだそうだ。
　最後に撮影した写真。オーナーを中心に、9名のスタッフ全員が並んだ一枚は、共に集い、苦労を分かち合いながら喜びを共有する同士である「誇り」が感じられた。]]>
      
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